1930年代後半、南部アメリカの小さな町。
人種差別と貧困が根を張り、夢は萎れていく停滞し変化のない寂寥の街で、人々は各々の孤独を抱えて生きていた。
医師コープランド、ジェイク・ブラント、ミック・ケリー、ビフ・ブラノン。
他者に対して真の理解を求めながらも挫折する。だがしかし、登場人物たちにむけるカーソン・マッカラーズの眼差しは、終始、冷徹な観察者としての視線でありながらも、彼らを決して見捨てるわけではなく、苦悩や葛藤に対する深い理解や同情も同時にあります。
彼らの痛切な想いをぜひこの小説で聞いてほしい。
見解:ハイデガー的「実存」にふれる本
これから、「心は孤独な狩人」を読もうとしている人に、少しでも僕の見解を参考にしてもらって理解を深める参考になればいいと思っています。
まず心は孤独な狩人は読んでいてとても苦しくなる作品ですから、もし楽しく読書したい、という人にはおすすめはしません笑
なぜ苦しくなるかというと、人間の実存的な部分に触れる作品だからです。
実存という概念はハイデガーがいう意味の本来性です。彼は、人間が自己を見失うことなく、真に自分らしい生き方を追求することを「本来性」として捉えました。実存はその人間の本来性を具現化するための基盤であり、自己の選択や行動がその人の真の存在を形作るものだと考えられます。
それぞれの登場人物は、ある意味で「本来的な生き方」を追求しています。コープランド医師の啓蒙への情熱、ジェイクの社会正義への激しい欲求、ミックの音楽への純粋な愛―これらは彼らの本質的な自己表現の形です。しかし、その追求が深ければ深いほど、彼らは周囲から理解されず、より深い孤独へと追い込まれていきます。
読者はこうした登場人物たちの深い孤独を通じて、人間の存在の本質的な孤独にも向き合わざるを得なくなります。そしてハイデガーも言ってる通り、非本来的な生き方をしている僕たちにとって本来的な生き方に気づくのは、不安を通してだからです。
そして心は孤独な狩人とは、登場人物たちの「理解されない孤独」「目の覚めるような孤独感」は、読者に強い不安を呼び起こします。なぜなら、私たち読者も同様の経験を持っているからです。自分の信念や情熱を持ちながら、それを十分に理解されない経験、あるいは理解を求めながらも届かない経験は、誰もが持っているはずではないでしょうか?
とはいえ、この読書体験こそ、ある意味で本来性にきづく契機にもなりますし、僕たち自身の存在の本質について、より深い洞察を得ることができるのです。
心は孤独な狩人のあらすじ
1930年代後半の南部の小さな工業都市。(おそらくジョージア州)人種差別と貧困が根を張り、停滞した空気が漂う南部の街。
聾唖者のジョン・シンガーと、同じく聾唖者の親友スピロス・アントナプーロスは、長年共に暮らしていました。しかし、アントナプーロスの精神状態が悪化し、町から離れた精神病院に収容されてしまいます。
一人残されたシンガーは新しい部屋に引っ越し、そこで4人の人物と関わりを持つようになります。
黒人居住区の片隅で同胞たちの無知と諦念に怒りを燃やし続ける医師コープランド。労働者への搾取に対して声を荒げ、アルコールに溺れながら戦い続けるアナーキスト、ジェイク・ブラント。そして貧しい下宿屋の一室で、ベートーベンを夢見ては現実に引き戻される少女ミック・ケリー。彼らは誰一人として理解されることなく、それでもなお自らの信念を捨てきれずにいた。 彼らが心の内を吐露する相手は、銀器彫刻師の聾唖者シンガーただ一人。
心優しく常に穏やかなシンガーは彼らが抱える理想や他者に理解されない想いを吐露する。しかし皮肉にも、シンガー自身もまた、精神病院に収容された親友アントナプーロスへの一方的な思いに囚われていた・・・
理解されることを求めながらも、真の理解には到達できない孤独な人々の姿を描いた群像劇。
『心は孤独な狩人』の登場人物
ジョン・シンガー
聴覚障害をもつ聾唖。銀器彫刻師として働く。他の登場人物たちの悩みや孤独な思いを「聞く」存在。彼自身は精神病院のアントナプーロスとの友情に執着し、その喪失感に苦しんでいます。
ミック・ケリー
南部の小さな町で時計職人の父を持つ13歳の少女。一見すると活発なおてんばな少女、だがその内面には豊かな芸術的感性と音楽への強い情熱を秘めている。彼女の家庭は経済的に苦しく、下宿人を置いて生計を立てている。多くの兄弟姉妹がいる中で、特に幼い弟たちのババーとラルフの世話を任されることが多く、家族への責任を背負う。「内側の部屋」と呼ばれる特別な空間でそこでは音楽に満ちた彼女だけの世界がある。
ジェイク・ブラウント
カロライナ州出身。労働運動家で共産主義者。アルコール中毒。テキサスやオクラホマと様々な旅をする。売春のこと、知覚のことなど奔流のように喋る。狂気のような目をもち、荒々しい怒りが彼の体を覆っている。
ジェイクは、社会の不正に対する正当な怒りを持ち、鋭い洞察がありながら、それを建設的な形で表現できない人物として描かれています。彼の姿は、理想と現実の間で引き裂かれる人間の普遍的な苦悩を象徴しています。
ドクター・コープランド
1930年代の南部という人種差別が色濃く残る時代に、アフリカ系アメリカ人の医師として生きる人物。元奴隷の母と、ジョン・ブラウンとも関わりのあった牧師の父を持つ彼は、若くして北部に送られ、十年にわたる苦学の末に医師となる。黒人居住区で診療を行う彼の心を激しく揺さぶるのは、同胞たちの無知と諦めの姿。人種差別を「仕方のないもの」として受け入れ、自尊心を失い、教育の価値さえ理解しようとしない彼らの態度に、コープランドは深い怒りを感じている。彼は診療の傍ら、熱心な啓蒙活動を続け、同胞たちに教育の重要性を説き、自尊心を持つことの大切さを訴え続けます。しかし、皮肉なことに、彼の情熱的な使命感と時に高圧的となる態度は、同胞たちを遠ざける結果となる。
ビフ・ブラノン
地元のカフェの店主。物静かで頭で者を考えて洞察力鋭い。日々カフェに訪れてくる様々な人々を観察している。妻のアリスはガンで亡くなる。ミック・ケリーに対して幼児性愛傾向者。
スピロス・アントナプロス
ジョン・シンガーと同じ境遇の聾唖。ギリシャ人。シンガーと同居している。精神病院に入院させられた
『心は孤独な狩人』の読みどころ
「理解されている」という幻想、鏡像関係
ミック、ジェイク、コープランド・・・本作に出てくる登場人物たちは、孤独です。
彼らはおもいおもいの理想や主張をもっており、誰からも理解されません。他人と心を通じ合うこともありません。
彼らにとって自分を理解してくれる唯一の存在はシンガー。だから一方的に彼に対して想いを打ち明けていきます。
しかし実際のシンガーは、彼らの話を本当には理解していません。 シンガーの心はアントナプーロスへの思いで満たされているだけです。
これら四人の人々が部屋を訪れるようになって、七ヶ月以上になる。彼らが連れ立って来ることはない。みんないつも一人でやって来る。彼(シンガー)は常に温和な笑みを顔に浮かべて、彼らを戸口に迎える。彼の中には常にアントナプーロスを求める気持ちがある。
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彼らはシンガーの「沈黙」を「理解」と勘違いしています。
そして今では二人のあいだに、ある秘められた感覚が存在した。彼女(ミック)は彼(シンガー)に向かっていっぱい話をした。これまで誰かを相手にそんなに多く話をしたことはなかった。そしてもし彼に語ることができたなら、彼もまた多くのことを話してくれたはずだ。彼はミックにとって偉大な教師のような存在だったかもしれない。ただしゃべれないから、教えることはできなかった。夜ベッドの中で、彼女はい ろんな計画を立てた。彼女は孤児になって、シンガーさんと
そこに成立しているのは、あくまで「鏡像的な関係」=「自分自身」を映す鏡であって、自分の求める「理解者」の姿をシンガーの表情や態度に投影し、自分に都合よく解釈しようとしています。
鏡像関係の構造:
- ミック → シンガー(音楽への情熱を理解してくれる理想の聴き手)
- ジェイク → シンガー(社会正義への怒りを共有する同志)
- コープランド → シンガー(人種差別への抵抗を支持する理解者)
ところが実際には、彼らは独白を続けているだけで、シンガーと対話は成立していません(シンガー自身も彼らが何を喋っているのか理解できない、といっています)
彼らは自分の投影を「理解してもらえている」と錯覚していますが、鏡像的関係は、結局のところ真の理解や交流をもたらしません。だから本質的な孤独は解消されず、むしろ、各人をより深い孤独へと追い込んでいきます。
シンガーの自殺は、この幻想的な関係の破綻を象徴していると考えてよいでしょう。
「鏡像的関係」は、今の人間のコミュニケーションの本質的な問題を浮き彫りにしています。僕たちは往々にして、他者との対話において実は自分自身と対話しているだけかもしれません。真の理解や交流を求めながら、実際には自己投影の罠に陥っているという皮肉な状況を、マッカラーズは鮮やかに描き出しているのです。
SNSなどでの交流も含め、私たちは本当に他者と対話しているのか、それとも自己投影の鏡に向かって独白しているだけなのか、という問い自体にもつながってきます。
人物たちを裁くことなく、ありのままを描く=深い人間理解
冷徹な観察者としてのマッカラーズの視線はとても厳しいです。作中において彼女は登場人物たちの行動や感情を客観的に描写しています。彼らの欠点や弱さを容赦なく描き出すからこそ、ときに心が苦しく張り裂けそうになります。
例えばジェイク。彼は労働者階級の搾取に対する激しい怒りをもち、アルコールに依存しながら、過激な言動で周囲を攻撃する。しかしその反面、社会の不正に対する鋭い洞察がありながら、それを建設的な行動に結びつけられない人間の弱さを描いています。
真理を知覚しないものたち。突然彼は声を限りにわめき立てた。「これが真理 だー おまえらは何にもわかってないんだ。わかってないんだ。わかってないんだ!」
P474
部屋にいるとき、彼はせわしなく床を歩きまわった。乱れたままのベッドに腰掛け、 ぼろぼろになった汚い爪の先を乱暴に噛みまくった。垢のきつい味が口の中にじわりと 広がった。内なる孤独感はあまりに強烈であり、心が恐怖に満たされた。彼はいつもだいたい粗悪な密造酒のパイント瓶を飲んだ。
P255
神経の高ぶりがジェイクの唇を不規則にぴくぴくと震わせ、気持ちを宥めるために彼は酒を飲んだ。やり場のない欲求が逆流となって押し寄せ、ジ エイクを支配した。ウィスキーをがぶ飲みし、彼は再びシンガーに向かって語りかけた。 言葉が内部で膨れあがり、口から吹き出した。彼は窓際からベッドまで歩き、そこからまた窓際に歩いて戻った。それを何度も何度も繰り返した。そして遂に膨れあがった言葉が洪水となり、それが酔っ払い特有の大げさな物言いと共に啞に向けられた。 「やつらはおれたちに何をやったか? やつらは真実を嘘に作り替えたんだ。やつらは理想を台無しにし、堕落させた。イエスのことを思ってくれ。彼はおれたちのうちの一人だった。彼は知覚していた。
P262
メロドラマのように安易な感傷に陥ることなく人間の弱さをこれでもかというほど赤裸々い描写する。こうした言葉は作品の中で各所に散りばめられており、行き場のない叫び声のように脳内にこだます。
しかし同時に彼らが捧げる情熱や理想をありのままに描き出す筆致にはときに温かさもあります。決してカーソン・マッカラーズは人物たちをさばくようなことはせず、ありのままの人間性を描いているのです。
愛すべきミック。夢もやがて現実にやぶれる
僕はミックがとても好き。彼女が抱える二つの世界の鮮やかな対比があります。
一方には、長女として幼い弟たちの世話をし、経済的に苦しい家族を支える現実・外の世界。もう一方には、音楽と夢想に満ちた「内側の部屋」という彼女だけの世界。
「内側の部屋」は音楽と夢想に満ちた彼女だけの世界。近所の家々のラジオから漏れ聞こえてきたベートーベンの交響に心を奪われその音の世界に深く沈潜して依頼、耳にした音楽を心の中で何度も反復し、自分なりの曲を作り上げようとさえします。
もしかしたら、夢をもっている人なら誰もがもっている世界なのかもしれません。
しかし夢見る世界は、やがて瓦解する。転機は、家計の窮状を目の当たりにした彼女が働くことを決意した時。徐々に仕事に追われる日々の中で、音楽に触れる時間は確実に減っていき、「内側の部屋」は少しずつ遠ざかっていきます。この決断は、大人への第一歩であると同時に、彼女の夢からの後退をも意味していました。
十セント・ストアで働くことになりそうだが、そんなところで働きたいとは思わなかった。まるで何かの罠にはまってしまったような気分だ。仕事はたぶん一夏だけでは終わるまい。ずっと先まで続くかもしれない。見通せないくらい先まで。収入があることにいったん慣れてしまえば、それなしではもうやっていけなくなるかもしれない。ものごととはそういうものだ。
P530
彼女の選択は、「選択を強いられた」という点で、より悲劇的。それまで音楽と想像力で築いていた豊かな内面世界 日々の労働に追われることで、その世界を失っていく心の奥に秘めていた音楽への思いが、次第に遠ざかっていく様子は悲しい。
いつまでも夢に浸れない「社会に出ざるおえない状況」=挫折は、とても心苦しい印象でした。
マッカラーズは、ミックを通じて、才能ある若者の夢が経済的な現実によって阻まれていく過程を、静かにしかし痛切に描き出しています。彼女の物語は、理想と現実の狭間で揺れ動く若い魂の普遍的な苦悩を象徴しています。
南部の停滞した空気、変化のない日常
この作品で僕が「南部の小さな町に漂う永続的な停滞感」を象徴的に描き出している一文があります。
それはビフの妻アリスの葬儀が行われた翌日の描写。
ビフは翌日も昼の間は店を閉めた。しかし夕方前には、入り口のドアにかけてあった 色褪せた百合の花輪を外し、店を開けて商売を再開した。なじみの客たちが悲しげな顔つきでやってきて、注文をする前にレジの横で数分間、彼に言葉をかけていった。いつもの顔ぶれがそこにいた――シンガー、ブラント、そのブロックにあるいくつかの店に勤めている人々、川縁の工場で働いている人々。夕食のあとにミック・ケリーが小さな弟と共に姿を見せ、スロットマシーンに五セント玉を入れていった。最初の硬貨が無駄 部に終わると、彼女は両の拳で機械をどんどんと叩き、お金が戻ってはいないかと、何度 も返却口をのぞいた。それからもう一枚五セント貨を投入し、ほとんど大当たりに近い 二当たりをとった。硬貨がじゃらじゃらと出てきて、床を転がった。少女とその弟は、他 の客がその上にすっと足を乗せたりしないように、怠りなく鋭くまわりに目を配りながら、落ちた硬貨を拾い集めた。啞は部屋の真ん中で、テーブルに向かって夕食をとっていた。向かいではジェイク・ブラントが一張羅の服を身に纏い、ビールを飲みながら話 をしていた。すべては以前と同じお馴染みの光景だった。やがて空気は煙草の煙で曇り、 店は騒がしくなっていった。ビフは注意を怠らなかったが、どのような物音も、どのよ うな動作も、彼から発されることはなかった。
P217
色褪せた葬儀の花輪を外し店を開ける行為、なじみの客たちは形式的な弔問の言葉、「いつもの顔ぶれ」。
妻アリスの死という非日常的な出来事から、いかに日常が淡々と復活していくか。
シンガー、ブラント、近所の店の従業員たち、工場労働者たち―彼らの存在は、まるで時間が止まったかのような印象を与えますし、彼らの来店は、まるで舞台装置の一部のように、毎日同じ時間に、同じ場所で繰り返されているようにも感じられます。
彼らの行動パターンの描写を細かく描写することで、この町の停滞感と変化のない日常を見事に表現していると思います。
最後、「すべては以前と同じお馴染みの光景だった」という一文は、この町の停滞感を直接的に表現していると思います。
『心は孤独な狩人』の好きな文章・名文
僕が特に好きな場面、それはミックの「内側の部屋」における音楽的世界を生き生きと描写している下記のシーン。彼女の音楽への情熱と、それを形にしようとする純粋な努力が印象的です。
その冬中ずっと彼女はそのノートに音楽のことを書き綴っていた。夜に学校の勉強をさらうことを彼女はもうやめていた。音楽の勉強にもっと時間をかけたかったからだ。 おおむね彼女は小曲を書いていた。歌詞をまったく持たない曲。低音部さえ持たない曲。 それらはどれもとても短いものだった。しかしたとえページ半分の長さしか持たないも のであっても、彼女はそれにタイトルを与え、その下に自分のイニシャルを書き込んだ。
ノートに収められたのはどれも、本当の作品、作曲とは言いがたいものであり、彼女が記憶に留めておきたい、頭にふと浮かんだ曲という程度のものだった。彼女はそれぞれ に、そこから思い浮かぶタイトルをつけた。「アフリカ」とか「ビッグ・ファイト」とか「雪嵐」とか。 頭の中の音楽を、それが鳴っているとおりに書き留めることは、彼女にはできなかった。彼女はそれを二つか三つの音符にまで狭めなくてはならなかった。そうしないことには、頭がこんがらがって前に進めないのだ。音楽をどのように書き記すかについては、 彼女がまだ知らない事柄がいっぱいあった。しかしそれらのシンプルな曲をある程度素早く記譜する技術を学べば、やがては自分の頭の中で鳴っている音楽をそっくり書き留められるようになるはずだ。
一月に彼女は、あるとびっきり素晴らしい曲を書き始めた。「私が求めること、それが何かはわからないけど」というタイトルだ。美しく見事な曲だった。とてもゆっくりして、柔らかい。最初彼女は音楽に合わせて詩を書いていった。しかしそのうちに、その音楽に相応しいアイデアが浮かばなくなった。そしてまた「何かは」と韻を踏む三行 目の言葉を見つけるのが至難の業だった。その新しい曲は彼女を悲しい気持ちにさせ、 同時にまたわくわくした気持ちにさせ、幸福な気持ちにさせた・・・
彼女は意識を集中し、何度も何度もそれを歌わなくてはならなかった。彼女の声はい つもかすれていた。それは赤ん坊のときに泣きすぎたせいだと父親は言った。彼女がラ ルフの年頃だったとき、父親は毎日夜中に起きて、彼女を抱いて歩き回らなくてはならなかったものだ。父親が繰り返し語るところによれば、彼女を静かにさせる唯一の方法 は、火かき棒で石炭バケツを叩きながら、「ディキシー」を歌うことだった。 彼女は冷たい床に腹ばいになりながら考えた。もっとあとになれば――二十歳くらい になれ ゆいいつ
ば――彼女は世界的に知られる偉大な作曲家になっているだろう。自分の大オーケストラを持ち、すべての自作の音楽を自ら指揮するだろう。大観衆を前に舞台に立つことだろう。
P395〜
彼女の作曲への取り組みは素朴でありながら、真摯なものです。学校の勉強を後回しにしてまで音楽に没頭する姿は、彼女の情熱の深さを物語っています。短い曲、歌詞のない曲、低音部さえない曲―技術的な限界を抱えながらも、彼女は自分の心に響く音楽を必死に書き留めようとしています。
特に印象的なのは「私が求めること、それが何かはわからないけど」というタイトルの曲です。この曲名には、ミック自身の内面的な探求や漠然とした憧れが象徴的に表現されていると思います。彼女にとって音楽は、まだ言葉にできない何かを表現する手段なのです。
そして最後の夢想―二十歳で世界的な作曲家になり、自分のオーケストラを指揮する姿を思い描く場面。またこの場面では出てこないのですが、最終的にミックが「現実の世界で働くことを余儀なくされる」という結末を知っている僕にとっては、この純粋な夢が、後の現実の重みによって押しつぶされているので、一層心に染みるものとなってきます。