夏目漱石『夢十夜』の「第二夜」のあらすじ・読み解き【読みどころ解説有】

「お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。」

「もし悟れなければ自刃する。侍が辱はずかしめられて、生きている訳には行かない。綺麗に死んでしまう。」

悟りを開くことを迫られた侍。己のプライドをかけて「無」という悟りの境地へ・・・。

禅と武士道という二つの価値観の間で揺れ動く「自分=私」の心情を巧みに描いた作品です。僕は個人的に「第二夜」は単なる一つの物語を超えて、漱石の精神的な探求の記録でもあるのだとも考えています。

人間の本質を見つめ続けた漱石の姿が、禅の思想と向き合っている侍の物語に重なって見えてくるのです・・・。

目次

「第二夜」って?『夢十夜』全体の中で「第二夜」の位置づけとは?

「夢十夜」は、夏目漱石が1908年に発表した短編小説集。『夢十夜』は、各夜が独立した物語でありながら、「夢」というモチーフで一貫しています。主人公たちは夢の中で様々な経験をし、現実とは異なる世界に触れます。

その中の「第二夜」は、主人公の侍が禅の悟りをめぐって苦悩する姿を描いた作品です。とくに禅の思想と武士道の精神を前面に出ている点が特徴。他の夜では恋愛や人生の意味など普遍的なテーマが扱われることが多いのに対し、「第二夜」は「無」という言葉を超えた概念へ到達する禅的な思想と、武士としての名誉というテーマを深く掘り下げています。

禅と武士道という相反する思想が、一人の侍の内面で激しくぶつかり合う様子は、他の夜には見られない独特の緊張感を生み出します。

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「第二夜」のあらすじ詳しく解説!

ある夜、不思議な夢を見る。

どうやら自分は侍のようだ。私は和尚の部屋を出て、廊下を通って自分の部屋へ戻る。部屋には、ぼんやりと灯りがともっている。座布団に片膝をついて灯心を掻き立てると、丁子が朱塗りの台に落ちて、部屋が明るくなる。

部屋の襖には、蕪村の描いた黒い柳が薄く濃く描かれ、寒そうな漁夫が笠を傾げて土手を歩いる。床には「海中文殊」の掛け軸が掛かっている。線香の香りが漂う静かな寺の一室。

そこで主人公は、先ほどの和尚との会話を思い出す。和尚は、「侍なら悟れぬはずはない」と言い、主人公が悟れないのは侍ではなく、「人間の屑」だからだと言う。主人公は、和尚に悟りの証拠を見せろと言われ、口惜しく思う。

主人公は、隣の部屋にある時計が次の時刻を告げるまでに、必ず悟ってみせると心に決める。そして、悟りを得たら、今夜中に和尚の部屋に踏み込み、和尚の首と引き換えにすると考える。もし悟れなければ、自害して果てようとさえ思う。侍としての面目を保てないから。

こうして主人公は、必死に「無」の境地に到達しようとする。座布団の下から短刀を取り出し、鞘を払って刃を見つめる。冷たい刃が暗闇で光り、殺気立つのを感じる。

主人公は短刀を右脇に置き、全伽の姿勢で座る。そして、「趙州狗子」などの禅問答を思い浮かべながら、「無」について考え込む。歯を食いしばり、目を見開き、拳で自分の頭を打ちながら、必死に悟ろうとする。

がしかし、「無」の境地はなかなか訪れない。苦しみ、焦り、口惜しさが込み上げてくる。頭の中は混乱し、行灯も掛け軸も畳も、あるようでないような、ないようであるような不思議な感覚に陥る。

そんな中、隣の部屋の時計が鳴り始めるーーーー。

一度チーンと音が響く。主人公ははっとして、咄嗟に短刀に手をかける。そして、二度チーンと音が響く。

夢十夜の「第二夜」の意味調べ

全伽とは?

全伽(ぜんが)とは、禅宗において座禅を組む際の正しい姿勢のことを指します。「全伽趺坐(ぜんがふざ)」とも呼ばれます。禅宗では、この全伽の姿勢で長時間座り続けることが修行の基本となります。全伽で座禅を組むことで、心身を統一し、悟りへの道を歩むのです。

「第二夜」で侍が全伽の姿勢をとるのは、禅の修行者としての心構えを示すためだと言えるでしょう。侍は武士でありながら、全伽で座ることで、禅に対する真摯な態度を表しているのです。全伽の姿勢は、侍が禅の世界に没入していく様子を象徴的に表現していると解釈できます。

夢十夜の「第二夜」のテーマとは一体・・・

第二夜はこうしたテーマがあります。

  1. 侍の悟りへの苦悩と葛藤
  2. 禅の世界観と修行法
  3. 人間の内面の探求

この作品の面白いところは「禅の修行=悟りへの道」と「武士道の精神」が交錯している点。

作品の主人公は、侍でありながら禅僧達が最終的に追い求める「無」という悟りを求めます。しかしどうしてもその境地に到達できません。

それは当たり前ですよね。「無」の悟りは、簡単に追求できるものではありません。それは長い修行と深い思索を必要とする、極めて難しいです。

一心不乱に努力する姿からは、悟りへの強い思いが伝わってきます。しかし、悟れないことへの焦りや恥ずかしさから、次第に苦しみは深まっていくのです。

「第二夜」のテーマと読みどころ【←フカヨミポイント!】

禅の世界観を色濃く反映

「第二夜」には禅特有の世界観が色濃く反映されています。

例えば「第二夜」の冒頭部分は、主人公の侍が和尚の部屋を退出し、自分の部屋に戻るシーンから始まります。侍は、和尚の部屋で入室(にゅうしつ)を終えたところです。

※入室とは、禅宗において、弟子が師匠との問答を通して、禅の教えを受けたり、自らの悟りの境地を確かめたりする儀式のこと。

さらに侍は、廊下を歩きながら、入室での出来事を反芻します。自分の部屋に入ると、ぼんやりと灯された行灯の明かりの中で、再び入室での問答を思い返します。

これらのシーンは、侍の精神世界を象徴的に表現する場としても機能しています。ぼんやりと照らされた行灯、禅師の掛け軸、線香の香りなど、侍の部屋の描写は、禅の世界を連想させます。

そして侍は、和尚から与えられた「無」という境地を目指してひたすら煩悶します。

また、作中では「趙州狗子」などの有名な禅問答が登場します。「狗子」とは犬のことで、「趙州狗子」は、南泉普願という禅師が弟子の趙州従諗に「狗子還有仏性也無(犬にも仏性があるか)」と問うたことから始まる禅問答です。この問答は、単純な言葉の応酬ではなく、真理を巡る深遠な問いかけなのです。

このように、夢と現実が交錯する幻想的な物語の中に、禅という日本の伝統文化の神髄が息づいています。漱石は、禅の世界観を巧みに取り入れることで、「第二夜」を読者の心に深く訴えかける作品に仕上げているのです。

無とは一体・・・

奥歯を強く咬締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。こめかみが釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。
懸物が見える。行灯が見える。畳が見える。和尚の薬缶頭がありありと見える。鰐口を開いて嘲笑った声まで聞える。怪しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。無だと云うのにやっぱり線香の香がした。何だ線香のくせに。
自分はいきなり拳骨げを固めて自分の頭をいやと云うほど擲った。そうして奥歯をぎりぎりと噛かんだ。両腋から汗が出る。背中が棒のようになった。膝ひざの接目が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。無はなかなか出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に口惜くやしくなる。涙がほろほろ出る。ひと思おもいに身を巨巌おおいわの上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕くだいてしまいたくなる。

禅においては、言葉や論理では捉えられない真理を直感的に悟ることが重要視されます。

実は和尚は、侍が言葉では説明できない「無」の境地に到達すべく、黙々と座禅を組んで思索を巡らせるように仕向けたのです。

とはいえ「無」の悟りは、簡単に追求できるものではありません。

なぜなら「無」とは、言葉では表現できない、あらゆる概念を超越した状態だから。それは、主客の分別を超え、自己と外界の区別がなくなった絶対的な真理の境地とも言えます。禅では、この「無」の境地に到達することが、悟りを開くために不可欠だと考えられているのです。

無に至るには、思考や分別を停止し、自己と世界の本質を直感的に理解する必要があります。しかし、僕たち人間は普段、言葉や概念に頼って物事を理解しているため、「無」の境地に到達することは容易ではありません。

侍は全伽の姿勢で座禅を組み、懸命に「無」を思索します。「無」が何であるかを言葉で説明・理解しようと努力します。しかし「無」の境地は言葉で説明できるようなものではありません。

だからここでひとつの結論がでます。

侍は「無とは何だ」と自問する時点で無への悟りは挫折せざるおえません。「無」が言葉を超えた概念だからです。

禅宗では「無」の悟りは座禅などの修行を通して体得するものだと考えられています。つまり、「無」は頭で理解するのではなく、全身全霊で体感するものなのです。

だから無へ至る道とは自我への執着を手放し言葉を超越し、真理を直感的に理解するまでの辛い道のりなのです。侍の苦悩と葛藤は、この言葉では表現できない真理を追求する、人間の永遠の旅路を象徴しているのかもしれません。

この場面は、禅における不立文字(言葉に頼らない教え・ブッダの文字で真理を説くことはできない、実体験を重視せよ)の思想を彷彿とさせます。ちなみに禅の修行には、坐禅以外にも、公案や茶道、書道など様々な方法があることも付け加えておきます。

なぜ「人間の屑」と呼ばれるのか?

「お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向むこうをむいた。」

なぜ和尚は侍のことを挑発するかのような発言・態度をするのでしょうか?

これは決して侍が本来の使命を果たせていないことへの和尚の強い失望と怒りではありません。

むしろ「無」という境地に向かうために和尚が「感情」というものを引き出すことで、侍が無の境地に近づけるように助けているのです。

禅において、悟りを目指す者は自我の追求と向き合わなければなりません。自我とは、自分自身に対する執着や固定観念のことを指します。禅の修行では、この自我から解放されることが重要だと考えられています。

「第二夜」で、侍が「人間の屑」と呼ばれるのは、侍が自我に囚われている状態を表しているのかもしれません。侍は、自分が侍であるという自意識や、悟りを開けないことへの恥ずかしさなどに執着しています。これらは全て、自我に基づく感情や思考だと言えます。

和尚が侍を「人間の屑」と呼ぶのは、このような自我に囚われた状態では、真の悟りには到達できないことを示唆しているのかもしれません。「人間の屑」という言葉は、侍の自我への執着を鋭く指摘し、その状態から脱却することを促しているとも解釈できます。

侍が「無」の境地を目指す過程は、まさに自我からの解放の過程だと言えるでしょう。「無」とは、自我を超越した絶対的な真理の状態です。侍は、自我に囚われている限り、この「無」の境地には到達できません。「人間の屑」という言葉は、侍がこの自我の呪縛から解き放たれることの必要性を示唆しているのです。

侍としてのプライド

「もし悟れなければ自刃する。侍が辱しめられて、生きている訳には行かない。綺麗に死んでしまう。」

という一節は、主人公の侍の強い決意と覚悟を表しています。これは、侍の心理状態と価値観を理解する上で重要な場面だと言えます。

侍は、和尚から悟りを求められ、悟れなければ和尚の首を取ると宣言しました。しかし、その一方で、もし悟れなかった場合は自刃する、つまり切腹することを考えています。これは、侍としての誇りと名誉を重んじる武士道の精神を反映しています。

侍にとって、悟りを開くことは単なる個人的な目標ではありません。それは、侍としての使命であり、名誉に関わる問題なのです。悟れないということは、侍としての責務を果たせなかったということであり、大きな恥辱だと考えられています。

「侍が辱しめられて、生きている訳には行かない」という言葉からは、侍の強い自尊心とプライドがうかがえます。悟りを開けないことは、侍にとって耐え難い屈辱であり、そのような状態で生き続けることは考えられないのです。

そのため、侍は「綺麗に死んでしまう」ことを選ぼうとします。ここで「綺麗に」というのは、武士道の理念に基づいた潔い死に方を意味しています。切腹は、武士にとって恥を雪ぐための名誉ある死であり、侍はそれを選ぶことで、自らの名誉を守ろうとしているのです。

このように、この一節は侍の価値観と心理状態を如実に表しています。悟りを開くことは、侍にとって名誉に関わる重大な問題であり、それを達成できない場合は、死をもって責任を取ろうとするのです。

侍は、禅の悟りと武士としての名誉という、二つの価値観の狭間で苦悩しているのです。

禅と漱石の関係とは?

「第二夜」を読み解く上で、漱石と禅の関係は欠かせない視点。

漱石は早くから禅に興味を持ち、自ら坐禅に取り組んだり、禅書を研究したりしていました。特に、イギリス留学から帰国後、神経衰弱に悩まされた時期には、禅の思想に救いを求めていたようです。禅が説く「自我の迷執」からの解放は、漱石にとって大きな魅力だったのでしょう。

また、漱石は文学者として、「人間」や「こころ」の真実を描くことを目指していました。そのために、禅の思想が大きなヒントになったと考えられます。禅が追求する「人間とは何か」という根源的な問いは、漱石文学の核心部分と深く結びついているのです。

晩年の漱石は、禅の「悟り」の境地に到達することを強く望んでいたようです。『断片』や書簡の中で、「絶対の境地」や「無我」といった禅的な言葉が頻出していることからも、そのことがうかがえます。

こうした漱石の禅への深い傾倒は、『夢十夜』の「第二夜」にも色濃く反映されていると言えるでしょう。侍が「無」の境地を目指して苦悩する姿は、漱石自身の禅への思いを投影したものとも解釈できます。「第二夜」は、漱石の禅に対する理解と共感なくしては生まれなかった作品なのです。

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この記事を書いた人

読書好きブロガー。とくに夏目漱石が大好き!休日に関連本を読んだりしてふかよみを続けてます。
当ブログでは“ワタクシ的生を充実させる”という目的達成のために、書くを生活の中心に据え(=書くのライフスタイル化)、アウトプットを通じた学びと知識の定着化を目指しています。テーマは読書や映画、小説の書き方、サウナ、アロマです。

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