この記事はペンちゃんのような悩みを持った人にお届けします。
・少年ってどんなテーマがあるんだろうか?
「少年」は耽美的な世界を描くことに長けた谷崎潤一郎の作品の中で、特に人気の高い初期の短編作品です。
大人の僕たちが眉をしかめるような子供たちの、無邪気な遊戯のうちに孕まれている、危うくも歪んだ性行が
少年ってどんな小説?【概要】
1911年(明治44年)の6月にスバルで発表された短編小説です。
刺青のなかの一編として発表されて、ページ数としては50ページほど。
後年谷崎は「少年」のことを「一番キズのない、完成されたものである」と自信作であると述べます。
作品の舞台となっている隅田川沿いに長く伸びる河岸通りの日本橋有馬は、谷崎自身が幼少期を過ごした場所です。
少年のテーマは?【何を伝えたい作品?】
性的倒錯の世界を描く谷崎ですが、「少年」では特に未成年の子供たちが「遊戯」から「性的倒錯」へと続く過程を描くとともに、彼らのある意味で「覚醒」を描いた作品です。
なお作品構成の大枠の構成としては、主人公の「私」が表世界である学校生活から、美少年の塙信一を媒介して、光子含めた異世界=塙家での交わりを受け、最終的に異世界の住人になる形です。
「現実世界→異世界(性的倒錯した世界)」という形。
ちなみに異世界では、表世界で幅をきかせる仙吉、弱虫の信一は、全く別人格のような振る舞いをみせているのも面白いです。
少年を語るキーワードは?
- イノセント
- 残酷
- いじめ
- 悪女
- サド・マゾ
少年のあらすじ簡単要約
舞台は日本橋有馬。
主人公は小学校4年生の「萩原の栄ちゃん」
彼は遊び相手もいなかったが、裕福な家庭で育つ同級生の美少年「塙信一」と親しくなる。
信一はいつも女中に付き添ってもらわないほど臆病者で泣き虫だった。
そんなある日、信一は彼の家(豪邸)にこないかと誘われて、遊びにいくことに。
そこではお稲荷様のお祭りで縁日のような賑わいを見せていた。
「私」は信一の屋敷で、上級生で餓鬼大将の仙吉と、信一の姉光子に出会う。
信一は学校のように弱々しい人間ではなく、仙吉を折檻したり、姉光子を縛るなど、傲慢な振る舞いをし、虐げる存在だった。
私はそんな彼の振る舞いに対して、驚きとともに戸惑いをみせるが、本物の犬に混じって犬同様の扱いを受けたり、草履で顔を踏みにじられたりなどど、いつの間にか家来のように扱われるようになる。
そんな残酷な遊びが続いたある日。
信一が留守の時に、私と仙吉は屋敷内にある西洋館から光子がピアノを練習しているのが聞こえてきます。
西洋館にまだ一度も足をふみいれたことのない私と仙吉は、力関係では光子より上でありいじめていたので、いつものように折檻した後に、夜に西洋館に入れるように約束させます。
いよいよ西洋館に足を踏み入れた私。
夜の人気のない広大な屋敷の中には普段のいじめら役であった光子が、まるで別人のように豹変しており、蠟と蛇で脅して私と仙吉を脅します。
そうして「栄ちゃん、もう此れから信ちゃんの云う事なんぞ聴かないで、あたしの家来にならないか。いやだと云えば彼処にある人形のように、お前の体へ蛇を何匹でも巻き付かせるよ」
猫のように大人しくなって跪き二人にこれからは奴隷のように自分の言う通りにするように言いつけます。
女王のように君臨した光子に、二人はひれ伏すほかなかった。
この事件以降、光子は屋敷の女王となり、私と仙吉、弟の信一の三人は支配されて、奴隷として光子に仕えるようになる。
少年の登場人物紹介
01.萩原の栄
『少年』の語り手。
特徴のないごくごく普通の男の子。
もしかしたら私たちの近くにいるかもしれない子供・・・
02.塙信一
裕福な家庭で育った子息。
学校ではいつも一人ぼっちで、女中に付き添われている臆病者。
家ではわがままで傲慢な振る舞いをみせる。
色の白い瓜実顔をした美男子ではある。
03.光子
信一の姉。13、4歳。
妾の子。
いつも信一含めた男たちにいじめられて体にアザができるほど。
敷地内にある西洋館で異人の女にピアノを教えてもらっている。
04.仙吉
語り手よりも2年年上。
名代の餓鬼大将で、学校でいつも下の子いじめている。
信一の家によく遊びにきている。
学校でのふるまいとはことなり、信一に仙吉々々と呼び捨てにされたり、鼻くそをつけられたりと暴力を振るわれている。
坊っちゃんと主従関係になっている。
少年の読みどころ解説【深読み・引っ掛かりポイント】
少年たちの残酷な遊び
少年の魅力は何と言っても、未成年の子供たちの魅惑的で残酷な遊戯です。
例えば盗賊ごっこだったり、旅人が狼に食われたり(それもリアルに)、五本の指をしゃぶったり、人間縁台・・・
大人たちであれば眉間に皺を寄せかねない遊びを無邪気に遊戯を楽しみます、
信一は、手を合わせて拝むようにするのを耳にもかけず、素早く仙吉の締めて居る薄穢い浅黄の唐縮緬の兵児帯を解いて後手に縛り上げた上、其のあまりで両脚の踝まで器用に括った。それから仙吉の髪の毛を引っ張ったり、頬ぺたを摘まみ上げたり、眼瞼の裏の紅い処をひっくりかえして白眼を出させたり、耳朶みゝたぶや唇の端を掴んで振って見たり、芝居の子役か雛妓の手のようなきゃしゃな青白い指先が狡猾に働いて、肌理の粗い黒く醜く肥えた仙吉の顔の筋肉は、ゴムのように面白く伸びたり縮んだりした。
「さあもう二人共死骸になったんだからどんな事をされても動いちゃいけないよ。此れから骨までしゃぶってやるぞ」・・・むしゃ/\と仰山に舌を鳴らしながら、頭から顔、胴から腹、両腕から股や脛の方までも喰い散らし土のついた草履のまゝ目鼻の上でも胸の上でも勝手に蹈み躪るので、又しても仙吉は体中泥だらけになった。
光子が眼を白黒させて居るのを笑って見て居たが、やがて今度は木から解いて地面に仰向きに突倒し、
「へえ、此れは人間の縁台でございます!」
と、私は膝の上、仙吉は顔の上へドシリと腰をかけ、彼方此方へ身を揺す振りながら光子の体を臀で蹈んだり壓したりした。
「仙吉、もう白状するから堪忍しておくれよう」
上記にあげたのは一部ですが、
面白いのは大人たちがほとんど登場しないということです。
つまり大人=規範的な世界から強制を受けないからこそ、伸び伸びとイノセントな世界で遊戯の快楽に浸れるわけです。
そして子どもたちは善悪の区別はつかず道徳的にはまだまだ危うい存在だからこそ、大人からの強制がなければ、あくまで「芝居」というていでありながらも、遊びの過激さ・残酷さはエスカレートしていきます。
当然ながら、性的な倒錯にも簡単に飛び移れる年頃ですから、サド・マゾという儀式的な行為により、学校の世界=現実世界から最終的に光子の奴隷=谷崎的世界への移行にも意味が生まれます。