もしあなたがある日、目を覚ましたら「行先不明の孤独な船」に搭乗したとしたらどうですか。
周りは知らない偉人ばかり。どこにいくのかも全くわからない。孤独に苛まれて、どうすることもできない。
そんな状況に合うことは人生でゼロかもしれません。でも「第7夜」の自分はそんな最悪な体験をする・・・
準備はいいですか?「行先不明の孤独な船旅」へようこそ。
夢十夜の「第7夜」あらすじは?
「自分」は大きな船に乗っている。この船は昼夜を問わず黒い煙を吐きながら進んでいく。
だが目的地はわからない。どこへ行くんだが検討もつかない。
太陽は波の底から現れ、高い帆柱の上まで来ると船を追い越して沈んでいく。そのたびに青い波が沸き立ち、船はその後を追いかけるが、決して追いつくことはできない。
自分は船の男を捕まえて尋ねる。
「この船は西へ行くんですか?」
しかしとんとした返答もない。
甲板で水夫たちが帆綱を手繰る姿を見た自分は、陸に上がれる日が来るのか、どこへ行くのかも分からず、大変心細くなる。
乗客の中には泣いている女性や、天文学について語る異国の男性もいる。また、派手な衣装を着た若い女性がピアノを弾き、背の高い男性が歌を歌っている様子も目にする。
このように乗り合いにいる人間は大勢いるようだが、みんな異質のようだ。
主人公はますます船旅に嫌気が差す。
そしてこのまま船にいるよりはいっそ身を投げてしまうと考える。
そうしてとうとう海に身を投げる。だが身を投げたと同時に後悔する。
船と縁が切れたその刹那せつなに、急に命が惜しくなったのだ。
船は通り過ぎ、主人公は行き先の分からない船に乗っていた方がよかったと後悔する。
そのうち船は通り過ぎる。宙ぶらりんになった男は「無限の後悔と恐怖」を抱いたまま黒い那美の方へ静かに落ちていく。
夢十夜の「第7夜」テーマ・主題は?【伝えたいことは?】
ここからは第七夜のテーマ・主題を説明していきますね。第七夜は「自己」という孤独感がひしひしと伝わる作品です。
「夢十夜」の第七夜は、人生の不確かさや実存的な問いかけは、時代を超えて誰もが共感できるテーマであり、様々な解釈が可能な奥深さを持っています。
主人公が乗る行き先不明の船は、人生の不確実性や漂流感を表しており、周囲の人々との断絶は現代社会における個人の孤立を象徴しています。また、死への恐怖と再生への希望が入り混じる主人公の心理は、実存的な不安や絶望を浮き彫りにしています。
同時に、明治という時代背景を踏まえると、近代化の中で精神的な拠り所を失った知識人の苦悩をも読み取ることができるでしょう。
物語に散りばめられた象徴的な表現は、読者自身の経験や価値観に基づいて多様な解釈を可能にしています。
孤独の果てに待ち受けるのは、死に後悔した宙ぶらりんの「自分」
主人公は、どこへ向かうのか分からない巨大な船に乗っています。ただ漫然と進んでいくだけ。
そして、主人公は船内で誰とも真に心を通わせることができず、深い孤独に苛まれています。周囲の人々と隔たりを感じ、まるで部外者のようにただそこに存在しているだけなのです。
この孤独と漂流感は、主人公から生きる意味や目的を奪っていきます。そして、その果てに主人公が選ぶのが、死という極端な選択肢でした。
しかし、海に身を投げた主人公は、死ぬこともできません。魂だけが肉体から離れ、宙ぶらりんの状態に置かれるのです。
この「宙ぶらりん」という表現は、主人公の心理状態を見事に表しています。生きることも死ぬこともできない、どこにも帰属できない、そんな存在の不確かさを感じさせるのです。
そして、この宙ぶらりんの状態こそが、「自分」の抱える実存的な不安や孤独を象徴しているのだと言えるでしょう。
「どこからきてどこへ行くのか」という問いは、誰もが一度は抱く実存的な問いかけです。しかし、第七夜の主人公はその問いに答えを見出せないまま、ただ孤独の中に佇んでいるのです。
この解説が指摘するように、ここには文明批評家としての漱石の姿はありません。ただ一人の孤独な人間の姿があるだけなのです。
第七夜が描き出すのは、誰もが抱える普遍的な孤独と不安の姿なのかもしれません。そして、その孤独の果てに待ち受けるのは、死をも拒まれた宙ぶらりんの魂なのです。
第7夜の考察と解説【←フカヨミポイントだよ】
巨大な船とは一体・・・
何でも大きな船に乗っている。
第7夜の特徴は船に乗っている、ということ。それも単なる船ではなく、「巨大」であるのがポイント。
この船の意味は、明治の文明開化。
どうやら西(西洋)に向かっているようだ。
列強の仲間入りをしようと、富国強兵を進めて、国内は欲望のままに肥大化を続けていく。こうした日本のすすんで行く方向に対して漱石は当時違和感を覚えていました。
第7夜の「自分」自分の意志で乗船しているのでなく、自分の意志とは違う形で乗り合わせている、そんな感覚があって、これは漱石自身が西への志向が強かった日本にいる感覚に近かったのでは?と思います。
明治の文明開化の世の中の船は、行く先が あまり定かではなかったが事実、黒煙を吐き轟音をあげながら、西の方向を志向して、昼も夜も まっしぐらに進を続けているような有り様だった。
ではその船はどこに向かっているかというと、「どうやら西(西洋)に向かっている」ようだ。
しかしながら、「どこへ行くんだかわからないけど、もの凄い勢いで進んでいく。」とあるように、「自分」自体はどこにいくのか分からないと言っている。
ここで重要なのは、「自分」は自分の意志とは関係なく「乗り合わせている」という状態であること。
普通、船に乗船するのは、「ある場所にいくための手段」となるわけで、どこに行くかわかっている状態=目的地がはっきりしている、状態であるはずですよね。
しかしながら「自分」はその目的地が分からない状態、つまり、無目的さ・空虚さにつながっていきます。それは驚くべき恐怖につながります。
それは自分自身の存在感覚まで奪われることでしょう。
だから自分は大変心細いわけです。
「自分は大変心細くなった。 いつ陸(おか)へ上がれる事か分らない。 そうしてどこへ行くのだか知れない。 ただ黒い煙を吐いて波を切って行く事だけはたしかである。 その波はすこぶる広いものであった。 際限もなく蒼く見える。時には紫にもなった。
いつ到着するのかも、どこにいくのかも分からない。ただただ前に進んでいるだけの状態。そして眼の前には広大無辺の海が青々と広がっている。
それはまるで人間の恐怖などとは関係なく、自然の脅威であるようにもかんじます。
囃し歌の意味は?
「この船は西へ行くんですか」
船の男は怪訝な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、「なぜ」と問い返した。
「落ちて行く日を追かけるようだから」
西へ行く日の、果ては東か。それは本真か。東出る日の、御里は西か。それも本真か。身は波の上。檝枕。「かじまくら」。流せ流せ。
どこに船が向かっているのか、その行き先を〈船員〉に尋ねた時に、歌う囃子歌。
この歌はこの場面では異様に陽気に響きます。「自分」は落日の太陽を追い駆けるような船に対して「不安」を抱いています。が、相手はまるで頓着せずに陽気な歌を歌っている。
行き先=方角を知りたいと思う「自分」。それに対して「船員」は「落ちて行く日」=「西」を疑うような発言、つまり「自分」は行き先を知りたい。でも「船員」は、「西へ沈みゆく太陽も、また東から出てくる。それは本当であるのか?」というふうに、謎かけのようにはぐらかされる。
「自分」としては「答えを求めているのにもかかわらず」今船の上にいる「現在」ことのみ考え、それ以外に頓着していない様子。
ここで押さえるべきは、主人公は、船の行き先を知りたいという具体的な「問い」を持ち人生の意味や目的を真剣に考え、答えを見つけようと努力している姿勢を見せている。一方、船員は、そのような問いを深掘りせず、目の前の現実をただ生きています。
この囃子歌は、主人公の不安と船員の無頓着さを対比的に浮き彫りにしています。主人公は、船の行き先を知ることで、自らの存在意義や人生の目的を見出そうとしています。しかし、船員は主人公の切実な問いかけに真摯に答えようとはしません。代わりに、謎めいた歌を口ずさむのです。
主人公にとって、この歌は決して陽気に響くものではありません。むしろ、自らの不安を煽り、人生の不確かさを突きつけるものとして受け止められます。
一方、船員は現在の瞬間にのみ生きており、行く先の不確かさなど気に留めていません。この対比は、主人公の実存的な悩みと、それに無頓着な周囲の人々の姿を象徴的に表しているのです。
異なるものたち=部外者
乗合はたくさんいた。たいていは異人のようであった。しかしいろいろな顔をしていた。
船には「自分」とは「異なるもの」がいます。「異なるもの・異人」たちは、主人公である「自分」にとって理解し難い存在であり、主人公の孤独感を深める要因となっています。
それは例えば、
- 一人の異人が来て、を知ってるかと尋ねた。
- サロンで歌う西洋人の若い男女。彼らは「自分たちの他には誰もいないように振る舞っている」
- 一人さめざめと泣いている婦人の悲しみに
前者の異人は、あたかも天文学などによっても裏付けられる普遍的で絶対の真理であるようにしながら、自分たちの信仰を厚かましく押しつけようとします。後者は、一人よがりな恋愛に酔いしれて、周囲を気にすることもなくただ二人の世界に。
彼らは一緒乗り合わせている人。ですが、明らかに「自分」と同じ感覚で悩みに共感してくれるようではない。なぜなら彼らは「異なるもの」だからです。
こうした「異人」たちの存在は、主人公の疎外感と孤独感を増幅させます。同じ船に乗り合わせていても、心が通じ合うことはなく、「自分」は完全な部外者として船内を彷徨うことになるのです。
これはあくまで僕の意見ですが、漱石は、この「異人」たちを通して、近代化が進む明治という時代の中で、伝統的な価値観が揺らぎ、人々の精神的な拠り所が失われていく過程を象徴的に描いているのかもしれません。
つまり自分は「異人」たちとの出会うことを通して、自らの孤独と疎外感を痛感させられる。そして、その孤独の果てに選ぶのが、死という究極の選択をとるような実存的な問題なのです。
退屈だから死ぬ?
自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。
先ほど実存的な問題といいましたが、上の文章は、退屈になった=死を決意という関係です。
つまり「退屈がゆえに、死を選ぶ」という流れになっています。
これを実存主義の観点から見ると、「自分」は孤独と疎外感の中で、徐々に生きる意味を見失っていき、人生の無意味さや虚無感に直面します。船内で誰とも真に心を通わせることができず、深い孤独を感じます。船の行き先が分からないように、主人公にとって人生の意味や目的も見出せないものになっています。
このように複合的な問題に直面したとき、人は自らの存在意義を問い直さざるを得なくなるわけです。生きる意味を問い、人生の虚しさに直面した時、その果てに選ぶのが自殺という極端な選択。
つまり第七夜の主人公も、こうした実存的な危機に直面しているのだと言えるでしょう。
船旅という閉塞的な空間の中で、主人公は自らの存在価値を見出すことができません。そして、その虚無感と退屈さから逃れるために、死を選ぼうとするのです。
しかし皮肉なことに、死を選んだ瞬間に、主人公は生への執着を再確認することになります。死の恐怖と、飛び込んだことへの後悔。この一連の心理描写は、人間の実存的なジレンマを見事に捉えていると言えるでしょう。
漱石は、主人公の自殺未遂という衝撃的な出来事を通して、生と死、孤独と疎外、そして人生の意味といった普遍的なテーマを浮き彫りにしています。
イギリス留学の記憶が下地にある
漱石は1900年(明治33年)9月に、芳賀矢一、藤代禎輔と共にイギリスへの留学の旅に出ました。横浜からドイツ・ロイド社の客船プロイセン号に乗船し、インド洋を西へ航海したのです。
この船旅の経験が、第七夜の描写に活かされているのは明らかでしょう。主人公が乗る船は、「大抵は異人のようであった」多くの乗客を乗せ、日没の方角へと進んでいきます。これは、漱石自身が体験した洋上の旅の印象と重なります。
また、船内で主人公が感じる孤独や疎外感も、漱石の実体験に基づくものかもしれません。当時の船旅では、日本人旅行者は少数派であり、言葉や文化の壁から孤立を感じることも少なくなかったでしょう。
ただし、第七夜が単なる自伝作品というわけではありません。漱石は自らの経験を下敷きにしながらも、そこに普遍的なテーマを織り込んでいるのです。
このように、第七夜は漱石の個人的な経験を出発点としながらも、そこから普遍的な人間の姿を描き出すことに成功している作品なのです。漱石の文学的な想像力と洞察力が、実体験の枠を超えて、深いテーマを紡ぎ出しているのだと言えます。