夜が明けるは、すご〜く考えさせられる小説です。
貧困だったり、過重労働だったりと。
登場人物たちの感じる”切実な痛み”がどれも生々しくて、読み手のこちら側の胸苦しくなるくらいで・・・
俺やアキにいつ救いが訪れるのか?過酷な状況が少しでも改善されるのか?などなど
ドキドキしながら、一気に読み切りました。
今回の記事は、そんな夜が明けるのあらすじや感想をお届けします。
『夜が明ける』のプロフィール【どんな小説?】
西加奈子さんの通算23作品目の小説。
長編小説は、5年ぶり(2016年の『i』依頼)
「2022年本屋大賞」ノミネート作です。
『夜が明ける』から連想される【キーワード】
- 変わりゆく人生の機微を描いている
- 友情と成長の物語
- 過重労働
- 社会の不平等生(貧困・虐待)
- 西加奈子さんのこれまでの作品とは、一味違ったテイストの小説
- 辛い物語だけど、最後には救いがある
この小説はとくに、辛い人生に苦しんでいる人に読んでもらいたい小説です。
辛いとは、例えば、親や金銭面で生まれたところに不平等を感じている人だったり、ブラック企業に努めている人だったり、などです。
『夜が明ける』のテーマは?
夜が明けるは、非常に重たいテーマをはらんでいます。
具体的には、現代の日本社会に根付く裏の面、若者の貧困、 虐待、 過重労働、生まれた環境の不平等性です。
とくに今回は若者にスポットをあてて、「日本の若者が社会で感じる生きづらさ」をテーマに、現実で苦しむ若者を生々しく描いています。
西加奈子さんは「書きながら、辛かった」というほど、5年間という執筆期間中に、苦しみながら小説を書いていたようです。
なぜなら、過酷な労働環境で働いている当事者ではないので、「自分が書いていいのか?」という意識が働いていたからです。
しかし他方で、社会る加害者としての当事者でもあると気付きまして、ならば書かなければいけない。
つまり西さんは加害者の立場から、被害者を描いているとも言いかえられます。
西加奈子さんはただテーマだけでは終わらせまん。
どれだけ傷ついても、夜が深くても、必ず明日はやってくる
作品には西さんなりの「祈り」が込められています。
それがあるからこそ「再生と救済の物語」でもあるのです。
僕たちは、俺とアキの辛い人生の歩みを通して、また西さんの強い祈りを込めた物語から、絶対になにかを学ばなければならないと思います。
夜が明けるのあらすじは?
普通の家庭で育った「俺」と、母親にネグレクトされていた身長191センチ「アキ」。
ふたりは高校1年生のときに出会い、アキ・マケライネンという無名のフィンランド俳優を通じて仲良くなり、互いはかけがえのない友となる。
高校卒業後、ふたりは別々の道をすすむ。
「俺」はADとしてブラック企業のTV制作会社で、過酷な労働環境の元つとめる。
「アキ」は下北沢でポプラの劇団員。
ふたりは無慈悲な“社会”で苦闘しながら、それぞれの人生を歩んでいく。
思春期15歳から33歳までの間に、彼らが辛い社会のなかで何を信じて、どう生きてきたかを描いた作品。
『夜が明ける』の登場人物
俺
- 本作の語りて
- 165センチ
- アキの人生に深い影響をあたえた人物
深沢暁(アキ)
- 身長191センチの巨大
- 高校生のときから老けて、頬にはすでに深い皺が刻み込まれてていた。
- 鼻の下や顎にはくろぐろとして髭。
- ひどい吃音
- 3,4人は殺したような雰囲気をしながら、いつも「オドオド」している。
- 「取るに足らないやつ」というレッテル
1982年生まれ。母親の実家がある、北の街で、そのハズレの小さな集落で生まれる。
母親が19歳のときに産んだ。父親はアキを生む前に姿をくらました。
2歳の時に東京に戻る。
大学ノートの日記を読む。そこには「俺」が知らないアキのことが書かれている。
「男たちの朝」が接点となり、俺と親友になる。
アキ・マケライネンに顔から、言葉、心も身体もなろうとしている。劇団に入ろう
アキの母
細く小さな体。引きこもりがちで、数日そこからでてこずにすすり泣いていることがあった。
19歳でアキを産んだ。
強い人ではない。心を病んでいる。
アキの父がいる都会で病気にする
祖母や、祖母の家に出入り
幼いアキを1日放り出して、仕事に行ったり、夜遅く帰ってきたり(ネグレクト)
遠峰
見た目にも分かる強さ。
一重の目にはきゅっとつり上がり、眉毛も同じように強く引き上がっている。
細い鼻は線を引いたように長く、赤みの強い唇は滅多な過去とでひらかない。
早くに母親を亡くし、父親と弟で暮らす。家事やる、家計の足しにガソリンスタンドで働く。
漫画家になりたい。イラストがうまく、自分で4コマ漫画を書き、その後、クラスで起こった日常を描くA4レポート用紙に描かれた「にちじょう」
笑いのセンスもあり、見逃してしまうささやかなことを拾って優しい笑いにする。
将来有望であるが、大学には行かずにはたらくといっている。
俺の父
デザインの専門学校を出る、売れないフリーのデザイナー(ブックデザインなどを手掛ける)
俺が高校2年生のときに、42歳の若さで、車の自己で死んだ(自殺する)
俺の母
高校を卒業後に、小さな出版社で事務員として働き、そこで父と出会う。
20歳で結婚した。22歳で俺を産んでからは、専業主婦として家にこもった。
父が死んでからは中島さんに紹介された就職先で社会復帰をしようとしている。
中島さん
弁護士。俺の父とは、ある小説家のデビュー30年を祝う展覧会で出会う。
俺の父が死んだ時に、相続放棄の手続きなどの係争を無料で引き受けたり、母に仕事を紹介したりと面倒を見てくれる。
「負けちゃだめだ。」と勇気づけてくれる存在。
森
テレビのAD。心がまっすぐで、一言、強い女性。
その強さとは、腕力的なものではなく、体の内部から発するエネルギー・パワー。
周囲に良い影響を与える存在。
目はカラコンを入れて長いまつ毛にびっしり覆われてる。
ダン
俺がすんでいるアパートの隣人。
生活保護費をもらっているが、それをすべて酒に使っている。
『夜が明ける』を”深読み”するためのポイント
語り手=俺の使命は?【←アキをの人生を伝えること】
小説の1P目に、俺は「アキを知ってほしい」といいます。
あいつのことを知ってほしい。きっと長い話になるけど。
ここから読み取れるのは、夜が明けるとは主人公の「俺」が、友人である「アキ」の存在を、読者に伝える小説だということが分かります。
ではなぜ俺は「アキを知ってほしい」と思っているのか。
ひとつは、俺がアキの人生に”責任”があるからです。
具体的にどんな責任かというと、
アキ・マケライネンのことをあいつに教えたのは俺だ。だから俺にはあいつの人生に責任がある。マケライネンのことを教えたということは、すなわち、あいつの人生を変えたということだからだ。
つまり、俺はアキ・マケライネンという俳優の存在を教えてしまい、アキの人生を変えてしまったという責任があるです。
そしてその責任から、アキという存在をより多くの人々を伝えるべきだ、という使命・義務があったと僕は推測しています。
さらにその責任は、ある意味で、俺の願望を拠り所とするものです。
でも知ってほしいんだあいつが生きていたこと。この世界で、あいつの体で、どんな風に生きていたか。そして許されるのなら、俺自身のことも
小説を読んでいくうちに明らかになりますが、アキは、社会で苦しんだ当事者(貧困)の代表であり、同じく社会に攻撃された俺としたら、同じ境遇であり、同士でもあるわけです。
したがって、彼の苦しんできた状況とともに、必死で生きてきた証として存在させることは、すなわち、俺自身の人生の証明+肯定につながるのです。
要は俺にとってアキを語ることは
1アキの人生を変えてしまった(もしかしたら悪い方へ)という責任を逃れる
2アキという人物をヒーロー的に描くことで、俺の人生にも意味があったのだ
という、自己防衛的な要素もあるのです。
夜が明けるは、主人公の「俺」が、友人である「アキ」の残した日記がきっかけとなってはじまります。
その日記を通じて「アキがどんな人物で、どんな人生を送ったのか」をめぐり、俺が自身の過去を回想しながら、物語が展開していきます。
アキ・マケライネンとは?
夜が明けるには「アキ・マケライネン」というフィンランドの超マイナーな俳優が出てきます。
作品はアキとアキ・マケライネンを中心に巡る作品といっても過言ではありません。
ガチガチの角刈り、眉毛と目が異様に近い、睨んでいるような目つき。
容姿の特長は本作を読んで頂くとして(P9くらい)とにかく風貌やら造形やらがめちゃくちゃで奇妙なのです。
だけれど、どこかすごい存在感を発揮しているのがアキ・マケライネンです。
彼が煙草を吸うと、それはこの世で最後の1本に見えたし、彼がウォッカを飲むと、それは誰かへの弔いの酒に見えた。たいてい酔っ払いの役で、ついていなくて、いつだって己の人生を悔いていた。
マケライネンみたいな奴は、アメリカにもフランスにもいなかった・・・マケライネンにクールな瞬間なんてなかった。彼はいつだって悲しく、ずっと滑稽だった。
そして、夜が明ける内ででてくる『男たちの朝』も覚えておいてください。
ヘルシンキで職にあぶれた男が、酒場で昔の不良仲間に会う。悪事を働く計画を企てようとするが、様々なタイプの邪魔が入って話は頓挫する。結果彼は何もない朝を迎える。派手なアクションも、危機感溢れる強盗シーンもない。映るのは寂れた酒場と疲れた男たち、そして、マケライネンのどこか諦めたような顔だけ。密室の会話劇で、2時間を超える作品だった。
まるで取るに足りないような俳優(メジャー作品は1作)なのにもかかわらず、アキ・マケライネンを、アキに教えたのは、「俺」なのです。
すげ面白い奴。どんな悲しい状況でも、どんな苦しい人生でも、マケライネンが演じたらとにかく笑えるんだ。なんていうか、生きる勇気をもらえるんだよ
そして、アキにとって、アキ・マケライネンは、「心のなかでは永遠に生きている存在」となるのです。
アキは死んでいるのか?
冒頭に「アキが生きていたことを」と示されている通り、すでにアキは死んでいると想定されます。
だから読者の僕たちは、俺の語りを通じて、「アキとは一体どんな人物なのか?」以外に
- アキは本当に死んでしまったのか?
- なぜアキは死んでしまったのか?(なにか理由があったのか?)
- どうして俺はアキの日記を受け取ることになったのか?
このような疑問や視点を持ちながら読むと深読みが可能です。
俺とアキがどのように大人になるのか?
俺とアキは社会的には「恵まれない側にいる」という共通点があります。
俺→親の早死、ブラック企業につとめて精神をやむなど
アキ→家庭内暴力、貧困など
だからこの小説では、彼らがどう社会と向き合い、戦い、変化する模様を読んでいうのもポイントです。
西さんの救いとは?
西加奈子さんは辛く無慈悲な世界を描かれていますが、ちゃんと”救い”となるメッセージもちゃんと残しています。
それは辛いときは「助けて〜」と声をあげることです。
日本であちこちで起きる過酷な悲劇。
それ自体なくすことができないかもしれません。
社会で必死になって生きている人は、つねに明日を生きるために懸命になって”戦っている”
例えばアキという人物。
彼は幼き頃から母親に虐待をされて、束縛され続けてきた。
ときに手のひらをかえすように母親から愛しているといわれる。
そんな傷の中に埋没した悲劇的な人物です。
だがしかし、アキの物語も
世界にあまた溢れている、とても悲しい物語のうちの一つ
でしかないのです。
では世界から苦しみをなくすことはできないのでしょうか?
答えはたぶん、そうだと思います。
「苦しみ」というのは、この世界に生きている限り永遠にはなくならないでしょう。
不平等だったり、不自由だったりする現実もおそらく変えることは不可能です。
では僕たちはそんな世界にどう立ち向かえばいいのか?
西さんの言葉はこうです。
苦しかったら、助けをもとめろ
つまり辛い目にあっている当事者が「苦しい」と、世間にむかって声を上げることが大切なのです。
なぜなのか。
その理由は、**人間は困った時にあらゆる人に助けてもらう”権利”**があるからです。
この前提があるからこそ、苦しんでいる人は、自分のために、声をあげなければならない。
そうしたほうが得だから。
「辛いです!」「助けてください!」「なんとかしてください!」
人に助けを求めることを負けではありません。
そもそも世間って戦いを挑むところでもないし、世間が戦いを挑むなんてありえない。
とはいえ声をあげても助からないのが現実だ、ということも忘れていはいけない。あるいは声をあげれない人も。
でもそんなこと言っていても始まらない。
読んだ人ひとりでも、「救い求めるのが大事なんだ」と思ってもらいたいです。
大切なのは、今ここに、困っている人がいることを知り、その現実と向き合うには、まず助けをもとめるという行動が必要なのです。
私たちは人種や国籍や性別など関係ないピュアな生き物として生まれてきたはずなのに、社会にいる間に自分の軸が分からなくなって、周りから「価値観」や「常識」の粘土で塗り固められた人間になる。例えば、十代の頃の私なんて、「可愛くないと駄目」だとか、そんなことばっかり思っていたんです。
「西さんの言葉の力は偉大だなあ」と改めて思わされました。
「夜が明ける」のタイトルの意味は?
僕は2つの意味があると思っています。
ひとつは小説内にも書かれていますが、俺とアキをつなげた古いフィンランド映画のタイトルが「男たちの朝」。
このタイトルは日本公開時でのタイトルだったのですが、本当は「夜が明ける」というタイトルだったのです。
つまり、俺とアキをつなげた映画のタイトルであり、ふたりの関係性を象徴するもの、という意味。
そしてももうひとつが、「夜があけてほしい」という渇望の意味です。
ここでいう夜とは、メタファー的な意味で、長い夜=闇であり、その闇は人間の体の内部に浸透し、僕たちを覆い隠すものです。
僕たちは夜に覆い隠されながら、誰かを傷つけながら(反対に誰かに傷つけられ)、ひっそりと闇に潜みながら、小さく呼吸を続けています。
そんな夜の世界の住民の人々が待ち焦がれている渇望=「夜が明けてほしい」という意味もあると思っています。
『夜が明ける』の感想
フィクションではない、貧困や家庭内暴力は、このリアルな世界にある
この世界には、誰にも知られていない不幸がある。 自らに与えられた環境に疑問をもつことが出来ず、ただただ現実を受け入れるしかなく、慢性的な、もはやその怒りで自分自身を殺してしまいかねないほどの怒りを抱えながら、生きていくしかない存在。
そうなんです。この社会には実際に「苦しんでいる人」がいるんです。
小説というフィクションだったり、遠い異国の地の話ではなくて、手に触れられるこの”現実”に。
日本という僕たちが暮らしている平和な国で。
それは虐待、貧困、過重労働という”言葉”で矮小化されていますが、当の彼らは、赤くギラギラしたリアルな血を流し、目からは温かく苦い涙を流し、無感覚な朝と、狂った孤独な夜をむかえているんです。
俺たちは、そんな人間たちの不幸の上にあぐらをかいているんだ。
「あぐらをかく」僕たちは軽々しくこのようにいます。
「苦しんでいる彼らの小さな声を聞き逃してはならない。SOSを見逃してはならない。助けなければならない」と。
だけれど日々、忙しい日常に忙殺されている人々は、彼らの声を無視し、黙殺しているのです。
悲劇な人生をおくったアキの母の死を誰もしらなかったように。
彼女の死を世界の誰も知らない。彼女が死んでも世界は微塵も変わらない。そう密やかに宣言しているような景色だった。P118
あるいはアキが『誰かに助けを求める』ということを知らなかったように、声をあげられない人もいるのです。
ときにテレビから流れる「女児虐待」「過重労働による自殺」という報道。
心を痛める。たしかにそれは良いことです。
まっとうな人間としての感覚です。
だが本気でその現状を変えようとはしない。戦おうとはしない。
僕たちはただそれを見ているだけなのです。
なぜなら、当事者ではないから。
つまり一瞬の目撃者にはなるのですが、当事者という意識がないから、自分の生活が脅かされない限りは、「世界を変えよう」などということはしないのです。
かくゆう僕もそうなのですが・・・
社会には数多くの悲劇が垂れ流しされており、黙殺されている。
これこそが、悲劇である。
「夜が明ける」というフィクションを通じて感じさせられました。
生まれた環境による不平等性
人は生まれる場所や親は選べない、それは当たり前なのだけれど、先天的な「不平等」が社会には確実に存在するのだと改めて考えさせられました。
アキは家庭内でネグレクト状態で、母親から暴力をふるわれています。
俺は普通の家庭で育ったのだが、突如父親が死去して、社会的には弱い側に立つことになります。
つまり、お互い普通の人と比べた場合、恵まれた家庭環境ではありません。
家庭環境により夢を諦めざるおえない人もいれば、仕事を選べない人もいる。
そんな不平等性が、この日本社会には普通にあるんだということを考えさせられました。
では少しでも不平等を回避する方法があるのか?といわれると難しい。
僕個人の力ではどうにもならない、と言わざるを得ないのが現実です。
社会というセーフティーネットや不平等を是正するような制度があるといいとは思いますが・・・
夢の理想と、無慈悲で痛みのある現実
俺は最初は壮大な夢をもっていました。
自分で番組をもち、テレビの力で世界をかえたい。社会をかえたい。お茶の間が好むような番組じゃなくて、視聴者の脳天を揺らすぐらいのすごい番組をつくりたい。
そんな熱い心でテレビ界に突入しました。
だが現実は、テレビタレントを起用したあたりさわりのない番組をつくり、万年ADで、先輩からは数々のパワハラをうける。
最終的には過酷な労働がたたり、精神を病み、倒れる・・・これが現実。
そうです、このように現実とは非常に過酷で無慈悲なんですよね。
さらに俺は「社会を守りたい」という大義などは忘れて、「社会における勝ち負け」にこだわるようになったのです。
なぜなら戦わなければ自分が社会・現実に押しつぶされ、哀れな負犬なるからです。
強烈な”痛み”の感覚が小説にはある
夜が明けるには「生々しい痛みの感覚」があります。
読むたびにヒリヒリする感覚があり、ときに息がしづらくなるほどの切迫感、その痛みに、恐怖さえ覚えることもあります。
たとえば、俺が精神を病み落ちぶれていく姿は強烈な印象。リストカット含め(後半に、過重労働に倒れて病院に入った後に暮らしは惨めである、クズである、負け犬である。)
ストレスが限界を超えると、自分の体から意識が離れていく、そんなことを聞いたことがある。「離人」と呼ばれるらしい、でも、俺の場合はそれに当てはまらないような気がした。個々にいる自分が、どうしようもなく自分であることは分かっている。自分が自分から離れることはないし、自分は、間違いなく自分の体内に留まっている。でも、体内から手をのばすと、俺の体は空洞で、俺は何にも触れられない
また劇団プラフをやめた後に、下北沢を徘徊するアキや公園でリンチされるシーンも痛ましいです。
西さんに対して「彼らをどこまで追い詰めるのか?」と過酷な状況に目を塞ぎたくなることも。
でもこの光景に目を反らしてはいけないのです。
社会のなかでは確実に彼らのような存在がいるからです。
そして僕たちは社会の一員として、彼らのように虐げられた立場にいる人の苦しむ声を、聞き逃してはならないのです。