夢十夜の「第六夜」あらすじと徹底考察!創作とはどんな行為か。

「芸術とは何か」「作品をつくるとは何か」。

夢十夜の『第六夜』は「夢」という非現実的な装置を通じて、作家漱石自身が長年抱いてきたであろう、こうした問いの一つの回答として読むことができます。

目次

夢十夜の『第六夜』のあらすじ

主人公は護国寺の山門で、鎌倉時代の仏師・運慶が仁王像を彫っているという噂を聞きつけ、現場へと足を運ぶ。

そこでは明治の風景の中に、鎌倉時代の巨匠・運慶が悠然と彫刻を施す奇妙な光景が広がっている。

運慶は木の中にすでに存在する仁王像を掘り出すかのように、鑿と槌を巧みに操る。見物人たちは運慶の卓越した技術に感嘆する。

一人の若い男が、運慶は仁王像を創造しているのではなく、木の中に潜む本来の姿を掘り出しているのだと言う。主人公もその言葉に影響され、自宅の庭の木の中にも仁王像が隠されているのではないかと考え始める。しかし、庭の木を片っ端から彫っても仁王像は見つからず、明治の木には仁王像が存在しないという現実を悟る。

第六夜のテーマ→芸術とは?創作するとは?

たかりょー

ここからは第六夜のテーマ・主題を説明していきますね。第六夜は「芸術・創作」というテーマがあります。

第六夜は芸術家の役割や創造行為について、示唆してくれる作品です。

僕が特に面白いと思ったのは、見物人たちが「運慶は木の中に存在する仁王像を掘り出しているのだよ」という発言に触発されて、主人公が自分の家の庭にある木から仁王像を掘り出そうとする行為。

実際、僕たちも偉大な芸術家に影響されて「ものを作ってみたい」「小説を書いてみたい」と創造的衝動を感じることがありますよね。そうした普遍的欲求を描いてはいるものの、最終的には「仁王像を見つけられないこと」というのが、ちょっと皮肉が効いていて面白いと感じました。

さて第六夜で扱われている主要なテーマをキーワードで表すと下記のようになると思います。

  • 芸術の本質
  • 理想と現実のギャップ
  • 模倣と独創性
  • 時代を超えた普遍的な作品

なぜ鎌倉時代なのか。

明治時代と鎌倉時代の交錯は、時間の非線形性を強調していいでしょう。これは夢の論理に沿うもので、現実と非現実の境界を曖昧にする効果があると考えられます。

過去と現在が同時に存在するという、夢特有の時間感覚を表現しています。

また運慶という過去の芸術家が現在に存在するという設定は、創作が時間や空間を超えた対話であることを示唆しています。創作者は過去の作品や思想と対話しながら、新たな表現を生み出します。あるいは過去の巨匠が現在に存在するという設定は、歴史が断絶したものではなく、連続しているという見方を示唆しています。

芸術創造における没入状態

「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と云って賞め出した。自分はこの言葉を面白いと思った。

なぜ主人公はこの言葉を面白いと思ったのでしょうか。

運慶が「ただ仁王と我れとあるのみ」という状態は、芸術家が創造の過程で経験する完全な没入状態を表しています。この状態は、作り手(運慶)と作品(仁王像)の境界が曖昧になり、両者が一体化する様子が描かれているわけです。

主人公が「面白い」と感じたのは、まさにこの境界の消失という芸術創造の本質的な面白さを直感的に理解したからだと考えられます。

芸術家と作品が一体となり、外界を忘れて創造に没頭する状態。これこそ真の芸術を生み出す真髄であって、その瞬間を目撃したことに主人公は深い興味を覚えたのでしょう。

素材の中に本質が「すでに」ある?

なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない

見物人(若い男)が木の中に、すでに存在する仁王像を「掘り出すようなもの」と表現している。
これはとてもおもしろいです。

というのも、芸術家=作り手は、素材=木の中に潜む美や形を発見・見出し、それを「顕在化」させる役割を示しているからです。

つまり素材の中に、すでに本質がある。これはプラトンのイデア論に通じる芸術観ですね。

この解釈を想定するなら、運慶(=作家)の役割とは木の中に潜む仁王像を見出し、それを顕在化させること、つまり創造者というよりも「発見者・仲介者」と考えることもできるでしょう。

また芸術創造を無からの創造よりも、すでに存在/あるものの発見と再構成」として捉えることもできます。

文章の中に「けっして間違うはずはない」という表現がありますが、芸術創造の過程に一種の必然性や確実性があることを示唆しています。これは、芸術作品が偶然や恣意的な創造ではなく、素材に内在する本質の必然的な顕在化であるという考えを反映しています。

プラトンのイデア論とは?

プラトンのイデア論では、現象界に存在するものは全て、イデア界に存在する完全な「形相(イデア)」の不完全な影や模倣とされます。この物語での「木の中に既に存在する仁王像」という考えは、まさにこのイデア論を芸術創造の文脈で表現していると解釈できます。
この視点では、芸術家(運慶)は単なる「作り手」ではなく、イデア界と現象界を繋ぐ仲介者または「産婆」のような役割を果たしています。彼は素材(木)の中に潜む完全な形相(仁王像のイデア)を見出し、それを現象界に顕在化させる役割を担っています。
芸術創造の本質:
芸術創造は、この解釈によれば、新しいものを生み出す行為というよりも、既に存在する完全な形相を発見し、それを物理的な形で表現する行為となります。これは芸術を、真理や本質の探求と直接結びつける考え方です。

挫折がまっている

物語の冒頭では、主人公は単なる好奇心から運慶の仕事を見に来た傍観者にすぎません。しかし、作品の後半、自らも芸術創造を試みようとします。

転機となるのは、見物者の「木の中に埋まっている仁王像を掘り出すだけだ」という言葉。主人公は「自分の庭の木にも仁王像が隠されているのではないか」と考え始めて、掘り出すくらいなら自分もできるかもと思ったわけです。

ところが、いざ自分の庭の木を次々と彫っていくものの、期待した仁王像は現れません!

自分は一番大きいのを選んで、勢いよく掘り始めてみたが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。

これは、芸術創造の難しさを示しているわけです。

ただ仁王像が見つからないことは、主人公が仁王像を見つけられなかったことは、必ずしも才能の欠如を意味するものではありません。むしろ創造的過程が終わりのない探求であることを示してい、常に自己と作品の間で対話を続け、完璧を求め続けます。

ですからこの時は主人公は見つからなかったにしても、その後の探求次第では、仁王像を見つけ出すこともできるかもしれない可能性もあると、僕は思っています。

なぜ明治の木には仁王は埋まっていないのか。

ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。

実際こんなことありませんか?

僕らも令和という時代で「漱石みたいな作品を作りたい」と思う。でもそもそも時代の文脈が異なるから、漱石作品を現代において生み出すことはできない。

つまり各時代には、時代固有の表現形式や主題があるわけで、漱石の作品が明治時代の文脈で生まれたように、運慶の仁王像も鎌倉時代という背景のなかで生まれたのです。

だから現代の僕たちが漱石や運慶の作品をそのまま再現しようとしても、それは不可能ですし、意味もありません。

重要なのは、過去の芸術家の作品から本質的なものを抽出し、それを現代の文脈に適用しながら新しい表現を生み出すことではないでしょうか。

これは「仁王を彫る」(=書く)という行為ではなく、仁王そのもの=作品そのものに込められた精神性・テーマこそ時代をこえて受け継がれていくものだと捉えることもできます。

ですから、例えば現代のデジタルアートという表現形式も一つの方法であって、そこに何かしらテーマなどを

時代の精神性から

もう一つ

鎌倉時代は仏教文化が社会に深く根付いており、仁王像のような仏教彫刻が重要な意味を持っていました。一方、明治時代は西洋化と近代化が進み、伝統的な仏教文化の影響力が相対的に弱まっていた時期です。

つまり、社会の精神的基盤が変化したことで、「仁王」が木に宿る可能性自体が減少したとも解釈できます。

明治時代の近代化は、自然に対する見方も変えました。木を単なる物質や資源として見る見方が強まり、その中に神秘的な存在(仁王)を見出す感性が薄れたことを示唆しているかもしれません。

あるいは鎌倉時代から明治時代までの間に、仏像彫刻の技術や伝統に一定の断絶があった可能性があります。これにより、「木に仁王を見出す」能力が失われたと解釈することもできます。

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この記事を書いた人

読書好きブロガー。とくに夏目漱石が大好き!休日に関連本を読んだりしてふかよみを続けてます。
当ブログでは“ワタクシ的生を充実させる”という目的達成のために、書くを生活の中心に据え(=書くのライフスタイル化)、アウトプットを通じた学びと知識の定着化を目指しています。テーマは読書や映画、小説の書き方、サウナ、アロマです。

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