夢十夜の「第三夜」あらすじと考察!参考になる解説【感想文に】

もしあなたが自分の記憶とは関係ない「罪」を背負わされたとしたら、どうしますか?

それも、ある夢の中で突然に、自分の子供に、です。

それってもう典型的な「悪夢」ですよね。

目次

「夢十夜」とは何か?「第三夜」の立ち位置は?

『夢十夜』は、漱石が専属作家として、入社した朝日新聞時代に書かれた小品。

東西両「朝日新聞」に1908(明治41)年7月25日~8月12日まで、毎日一話ずつ掲載され、1910(明治43)年5月、春陽堂刊の小品集「四篇」に収録されました。

第三夜は非常に重たいテーマを持つ作品です。戦後、伊藤整や荒正人ら〇〇によって「第三夜」は、漱石の原罪意識のありかを示すものとして取り上げられました。

その流れの中で、例えば漱石の無意識に秘められた願望や不安、恐怖などを対象化した作品として論じられるケースも増えました。

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どこから着想をえたのか?

この「第三夜」は、「近世末期から明治初頭にかけての文学・演劇の一様式としての怪談噺」から着想を得たものではないかといわれています。

どういった物語かというと下記のとおりです。

  • 三遊亭円朝『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)
  • 鶴屋南北『東海道四谷怪談』
  • 河竹黙阿弥『蔦紅宇津谷峠』(つたもみじうつのやとうげ)

鶴屋南北『東海道四谷怪談』には赤ん坊が石地蔵に変化するという話もあるそうです。

第三夜のあらすじ

『こんな夢を見た。六つになる子供を負ってる。』

「自分」は田舎の畦道を歩いている。

背中に背負っている子供は自分の子であるらしい。また目が潰れている

ただ我が子であるにもかかわらず異様な不気味さを感じる。

若干6才であるにもかかわらず、自分と対等かのように妙に大人っぽい口調で話しかけてくる。

そして、自分の心を見透かしたように、周囲の事柄を次々と言いあていくのだ。

どこか超越した感のある子供に恐ろしくなった「自分」は、子供をどこかに捨ててしまおうと考える。

歩くうちにいつしか山道から、森の中へ。目の前に大きな森が見えた。

分かれ道にさしかかると子供はこういう。「左がいいだろう」

闇の影を自分たちの頭の上になげかけているようで躊躇したが、仕方無しに先へ進むことに。

そして一本の杉の木にたどり着く。子供はこう言う。

「御父さん、その杉の根の処だったね、あなたがおれを殺したのは」

「今からちょうど百年前だね。」

その言葉で「自分」は思い出す。

100年前の晩に、1人の盲人を殺したことを。

その瞬間、背中に背負っている子供がずっしりと重くなるーー。

第三夜の主題・テーマ【伝えたいことは?】

第三夜は非常に重たいテーマがあります。

それは、『自分の子と思って背負っていた盲目の子供が、実は百年前に殺した盲人であった。そして自分は記憶にもあるはずのない盲目殺しの罪を盲目の子供を通じてあばかれ背負っていく』という作品。

背負うというニュアンスは

「おれは人殺しであったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵のように重くなった」

という部分で表現されています。

生まれる前から見に覚えのない罪を背負わされるという地獄。漱石の内部のカオスの世界を、暗く生々しい形で隠微に描かれています。

小僧/超越者小僧の予言・超越的な視点

第三夜において、自分という語り手の「子供」である小僧は一種の超越的な能力をもっています。

例えば下記の通り。

「田圃へかかったね」と背中で云った。 「どうして解る」と顔を後へ振り向けるようにして聞いたら、 「だって鷺が鳴くじゃないか」と答えた。 すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。

「だって鷺が鳴くじゃないか」と小僧が分かったのは、鷺が鳴く前です。

あるいは、

「御父さん、重いかい」と聞いた。 「重かあない」と答えると 「今に重くなるよ」と云った。

とちょっと予言的な口ぶりであったり。

ではこの小僧は物語においてはどのような役割があるのでしょうか。

それは、すべてを見透かすような超越的な視点をもっているということです。

その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩もらさない鏡のように光っている。

「自分」が心に思うことは、すべて背に負ぶっている小僧に見透かされている、そして「自分」の過去、現在、未来さえもすべてわかっている、預言者的な立場であるということです。

そこから分かるのは、「自分」は「小僧」に従属しているという関係です。だから「自分」はこの物語内において「意志」というものは完全に無効にされ、「小僧」の働きかけから逃れることができないのです。

なので「自分」は通常の物語を推進する語り手としての役割は喪失しているわけで、あくまで小僧が予言する話を実現するだけ立場なのです。まるですべては決まってしまっているかのように。

原因から結果の方向に物語が進むのではなく、結果から原因へと逆戻りをしているかのような錯覚もあります。

小説「こころ」との共通点

さきほどの下記の表現について、漱石作品とリンクさせるとよりフカヨミができます。

その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩もらさない鏡のように光っている。

それは漱石の代表作「こころ」です。

もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横わる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがた顫え出したのです。

これは先生がKの自殺現場を目撃して、こころのなかでひらめいた言葉です。

この共通点から分かることはなんでしょうか。それはどちらも「罪責を背負う」という点です。違いがあるとしたらそれは前者が「自分が行為者にさせられた(知らぬ間に)」、後者は「自分が行為者である」という部分。

ここからも罪の意識というのは漱石作品に共通するテーマだということがわかります。

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自分の「子供」に見に覚えのない罪悪を背負わされる

古今東西の伝承などで、ある殺人者を復讐のために彼の子供として生まれ変わって、復讐を果たすという物語は結構あるそうです。

そういった殺人を犯した当人は、生まれ変わりの子供が目の前で「おれはお前に殺されたやつだ」といわれたら、理解ができます。

親が今生のしかも近い過去に犯した非道な 罪を告発して、それを罰するという局限された働きしかありません。

それに対して第三夜の夢では、自分が「一人の盲目を殺した」のは、ちょうど百年前、つまり彼 がこの世に生享けるよりずっと以前の前世における出来事、現在という人格になるはるか前の話なんです。

それまで自分が前世で「人殺であった」 ことは、全く知りえようはずがまったくないことで、超越的な語り手である「自分の子供」に過去の盲人殺人という記憶をとつぜんありありと呼び覚まされるわけです。

子供は前世にあった事件のことを、その起こった時刻や場所までじつに正確に知っていて、前世からおそらく来世にまでわたって、すべての些事に対して見透かされている広大無辺な存在なのです。

自分の子でしかも「盲目である」のに、「自分の過去、現在、未来を悉く照して、寸分の事実も洩らさない鏡の様に光っている」。これに対して「堪らなくなった」と感じたのでしょう。

小僧はなぜ盲目なのか?

作品を読んでいて、なんで子供が盲目なんだ?と疑問に思いませんでしたか?

この答えは最後に書かれているようです。

この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。

つまり、背中に背負っている小僧は、自分が前世で殺した盲人の生まれ変わり、という解釈ができます。

しかし僕はあえて、生まれ変わりとは違う解釈をしてみます。

背中に背負った盲目の小僧こそ、人間が持つ「罪の意識」あるいは漱石作品でおなじみの「利己主義」を象徴しているのではないか?ということです。

背負っているのは「自分の子供」だとされていますが、そもそも子供というのは、「自分」の「内部」から産み落とすものというニュアンスがありますよね。

であるから自分の内部にあった、なにかしらを外化した存在こそ=子供とも考えられます。

このなにかしらはポジティブなものではありません。

なぜなら子供は自分を卑下するかのように、

負ぶって貰ってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない

まるで自分を恥ずかしいもののような存在として扱っています。

さらに自分は、自分の子供でありながら捨てようと考えています。

「百年前」ってどういうことか?

「お前がおれを殺したのは今からちょうど100年前だね」とありますが、これはどういうことでしょうか?自分は100年前に盲目の子供を殺したのを忘れていたということでしょうか。

漱石が100年を使用したのは遠い過去のこと、忘却されていた罪(=原罪意識)を象徴しています。

100年は人間の生涯を超える長い長い期間を象徴的にあらわしています。

つまり今のこの世に生を享けるよりずっと以前の前世における出来事であり「自分が経験していない」という点に意味があるのです。

そして「自分」は自分が殺してもいない盲人の罪を、の「一人の盲目」の生まれ変わりによってあばかれてしまい、過去の自分が殺人を犯したという過去の事実で決定してしまっている点です。

 青坊主(青坊主)の意味ってどういう意味?

言葉つきはまるで大人だし、いつのまにか眼がつぶれて青坊主になっている。

青坊主というのは、髪の毛を剃った青々とした頭、つまり「丸刈り」を意味する言葉です。

ただこの作品では、どちらかというともう一方の意味の「妖怪」的なニュアンスで用いています。

「青坊主」とは、日本の妖怪の一種で、青い袈裟を着た坊主のような姿をしているとされています。日本各地の伝承として残っていて、主に山や森林などに出現し、人間に迷いを起こしたり、道を尋ねられた人を追いかけたりするといわれている存在。

妖怪というのはそもそも超自然的な存在ですし、将来のことを見透かしたり過去の罪を暴く存在としての子供は不気味。だから「青坊主」という言葉からは妖怪というニュアンスを読み取ったほうが正しいような気がします。

文化五年 辰年(1808)について

「御父おとっさん、その杉の根の処だったね」

「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。

「文化五年辰年たつどしだろう」

 なるほど文化五年辰年らしく思われた。

「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」

自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。

「自分」が抱えている罪悪とは、それは、「文化五年辰年」に一人の盲目を殺したことです。

そして「自分」はそれを生涯、背負って生きていくことになります。

ではそもそも文化五年辰年とはどんな年なのか。

文化五年辰年は1808年で時代は江戸時代後期。

「夢十夜」は明治41(1908)年7~8月に発表されているので、実は作者が執筆時の一九〇八年から数えてちょうど百年前に当たります。

また1808年前後は、兇悪怪異の事が多く、草双紙の世界にも残虐趣味が横行したという史実もあります。

そういった事情を踏まえると、小僧の話はある意味「怪談話」「妖怪話」としても読めますよね。

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この記事を書いた人

読書好きブロガー。とくに夏目漱石が大好き!休日に関連本を読んだりしてふかよみを続けてます。
当ブログでは“ワタクシ的生を充実させる”という目的達成のために、書くを生活の中心に据え(=書くのライフスタイル化)、アウトプットを通じた学びと知識の定着化を目指しています。テーマは読書や映画、小説の書き方、サウナ、アロマです。

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