こんにちは、年間100冊以上の小説を読むたかりょーです。
- この記事は下記のような方におすすめです。
- 「こころ」をまだ読んだことがない。どんな物語か知りたい。
- 「こころ」はいったいどんなことが書かれているのか?(読みどころ・POINT)
- 「こころ」の感想文
- 「こころ」を読んでどんな感想を持ったか知りたい。
「こころ」は夏目漱石の代表作であり、高校の教科書にも登場します。(日本人なら、人生で一度は読んだほうがいい小説だと思っています)
この記事は「こころ」で気になる点を全て網羅的にご紹介しています。
例えば
- なぜ先生は自殺したのか?
- なぜKは自殺したのか?
- 先生は私に何を残したかったのか?
こういった疑問を、さまざまな角度から読み解いて、解説していきますよ。
もしこころで感想文を書く際にも使えますし、より深読みするために活用していただくこともできます。
たかりょーの「こころ」との出会いについて
僕が「こころ」と出会ったのは、高校の授業です。
当時は三角関係的な恋愛小説かなあ?って感じで、国語を聞いてました。(文豪の夏目漱石も恋愛小説を書くもんなんだあと思っていました。)
とくに印象に残っていたのは、Kの「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉、またエゴイズムという響きがなんとなくかっこよく感じてました。
あと「自殺した」というのは当時高校生の僕にも気になっていて、心の中に引っ掛かりとして、ある意味、心の奥深くにありました。
大学にはいってからは、僕を変える転機が訪れます。
それは学生生活に馴染めなく友達ができずに一人でいることが多くなったとき、「私ってなんだろう?」と考える時間が増えたんです。
つまり、一人でいる機会が増えたことで初めて自己を見つめ直すようになったわけです。
そして高校生の頃に「こころを読んで」感じた、妙な引っ掛かり導かれるように(「エゴイズム」であるとか、「先生とKの自殺ってなんでしたんだろ?」とか)改めて本書を読み直したのです。
【テーマ】最初に解説!「こころ」はどんな小説?テーマは?
ここでは「こころ」のテーマについて詳しく解説していきますね。
結論、「こころ」は“教え”の書物【生きた教訓から人間を学べ!】
こころを最後まで読み切ると、下記のような問いが生まれます。
先生は遺書を通じて、私にどのようなことを伝えたかったのか?
そしてこの点に気づくことこそ、こころという作品を深く知る上で重要になってきます。
さて遺書は先生の犯した罪(Kからお嬢さんを奪った)を述べる贖罪の意味はありません。
先生は死を媒介とした遺書を通じて、私に向けて、あることを伝えようとしたのです。
では一体なにを伝えたかったのか。それは「私」という不可思議な存在です。
私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽つくしたつもりです。
先生は、自らの死を介して、己の人間としての経験=生きた教訓を伝えて、未来(私)に伝えるために書き記されているわけです。
私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会
私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。
なので「こころ」は、ある意味で、先生(師)から私(弟子)へと、そして私からに読者へと時間を超えながら受け継がれてきた”教えの書物”なのです。
※先生と私との関係は、ブッダと弟子たちの関係、あるいはプラトンにおけるアリストテレスのような教える人=存在という関係で捉えることも可能です。
では具体的に、その教えとはなんなのか?
それはまず「私」という存在、そして人間存在にまつわる普遍的な諸々の事柄です。
例えば「恋について」「悪人について」「淋しさについて」「命について」などです。
私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。
私は先生のことをかなり慕っています。
なぜなら先生の人生経験が色濃く反映された「強い事実が織り込まれた」もので、そこからなにかを学べるような気がしているからです。
単なる書物から得た薄っぺらいものではないです。
だから語り手の私にとっては先生といる時間が貴重なのです。
私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益であり、教授の意見よりも先生の思想の方をありがたく拝聴している
とはいえ、先生の教えには、明確な答えがあるものが多くはありません。
逆にほとんどが「一定の空白を残した問い」で終わることがしばしばです。
しかしながら、空白が残っているからこそ、僕たちに「人間とは?」「愛とは?」「淋しさとは?」「孤独とは?」「エゴイズムとは?」というように、人間を考える契機(クエッションマーク)につながるわけなのです。
「こころ」のキーワードは?
こころで描かれている内容をキーワードとして表現するとしたら、下記です。
- 我執(エゴイズム)
- 罪の意識は人間のこころを蝕む
- 善人と悪人
- 人間の淋しさ
- 青春の恋の悩み
- 恋とは罪悪
- 生と死
- 師と弟子
- 孤独
- 明治の精神 など
「こころ」は、巧みな小説構成になってます
こころは下記のような3部構成になっていて、巧みに構成された小説です。
- 上「先生と私」
- 中「両親と私」
- 下「先生と遺書」
小説の前半(上「先生と私」)では、読者に私という人物を媒介に「先生」という“謎の存在”があり、読者の興味を引きつけます。
そして小説の最後(下「先生と遺書」)に、先生の遺書(つまり読んでいる時点では先生が自殺しているわけですが)、謎の存在として僕たちの前に現れた先生の、全てが過去が明かされて、カタルシスをむかえる。
そんな小説構成になっています。
それでは、下記よりあらすじを簡単にご紹介しますね。
上「先生と私」
上では青年私と孤独な先生とが鎌倉の海水浴で偶然出会い、私が先生の魅力、また暗い過去をかかえている謎に引きつけられる形で、互いに交流を深めていきます。
先生は多くの「謎」ともいえる言葉(「恋は罪悪ですよ」など)を、青年の私の心に残し、「それは全て過去からきているのだ」と、巧みに読者の興味を引いていく展開になっています。
また雑司ヶ谷に眠っている先生の友人や物静かな奥さんといった下の主要な登場人物も出てきます。
中「両親と私」
下「先生と遺書」の中休み的な位置。
私の父親は腎臓の病気を患っていたのですが、その病気の経過が思わしくないと手紙が届きます。
私は冬休み前を利用して、実家に帰省します。
そこで父の病気はそこまでひどくはない状態です。
ここでは田舎と都会や、先生と実の父親という対称的な存在をたてることで、より下「先生と遺書」を効果的に演出しています。
父の容態は安定していましたが、最終的に危なくなってきたところへ、先生から分厚い手紙が届く。
手紙が先生の遺書だと気づいた私は、実の父親を放り出して、東京行きの汽車に飛び乗ります。
下「先生と遺書」
下では、私に託された遺書を通じて、先生の過去や奥さんとの関係が暴かれることになります。
遺書の中には、先生という一人の人格を形成するきっかけとなった裏切りの記録が描かれており、彼が孤独で生きざるおえなくなった理由、あるいは人生観や深い内面にふれることができます。
最後には、最大の謎である『先生の自殺の理由』が語られます。
「こころ」の登場人物
続いて「こころ」の登場人物をご紹介します。漱石の他の作品と比べると「こころ」に登場する人物はそこまで多くありません。
私
上「先生と私」、中「両親と私」の語り手。田舎から出てきた、東京の大学生。(書生)
郷里には腎臓に大病を患う父親と、その母親がいる。兄は九州におり、妹は妊娠中。
先生とは暑中休暇で訪れていた鎌倉由比ヶ浜で出会う。
面識はなかったのだが、先生の強い魅力にひかれる。
【私の性格】
- 真面目
- 素直・素朴
先生
年齢は明かされていないが、大体30代後半。(名前は明かされない)
新潟の資産家で一人息子。
帝国大学を卒業した知識人。当時でいえばエリート層。
現在は働いておらず、まるで世間に名前を知られていない。
20歳になる前に、死去した親に残された財産だけで生活している。
社会に出ること、また人間との交流を避け、奥さんと静かに暮らしている。
毎月、雑司ヶ谷の墓地に墓参りにいく。
【性格】
- 非社交的
- いつも静か
- 自分を軽蔑し近づくほどの価値のない人間だと
- 過去がある
静(先生の奥さん)・お嬢さん
上・中では、先生の奥さんとして、下では青年時代の先生が間借りしていた先の奥さんの娘として登場。
心を許さない先生のことを深く愛する存在。
また美しい女性の象徴として深い愛情を示している。
奥さん
先生”が学生の時住んでいた間借り先の主(未亡人)。奥さんの母親。
東京の人であり、軍人の未亡人。男のような性格
自分の娘(お嬢さん)を青年時代の先生と結婚させようとしている。
父親は鳥取出身で、母親は東京の市ヶ谷生まれ(当時は江戸という時分)で合いの子。
K
新潟で大変勢力の強い本願寺の浄土真宗で、とても裕福な家な次男として。
先生と同郷であり大学では同じ科先生とは子供の時から仲が良かった。
母親はなくなり、父は坊さん。(兄と姉がいる)
中学のときに医者の家に養子へいく。
医者になる約束で東京の大学(帝国大学)に行くための学資を出してもらう。
だが本人は医者になるつもりはなく、己の道のために修行をしている。
これが養父母を裏切る形になっている。
雑司ヶ谷の墓地に眠っている。
道への精進のためなら自らの命をかけてもいいと考えている
宗教とか哲学とかに造詣が深い。
「こころ」を読み解く際のポイント(感想文用)
この章では、より詳細に「こころ」を読み解いていきます。今回紹介する角度から「こころ」を読んでみることで、同じ物語であるにもかかわらず僕たちに訴えかけてくるものが違って、また違った様相を帯びてきます。
ぜひ感想文を書く際にも役立ててくださいね。
- 先生が自殺した理由は?
- なぜKは自殺する必要があったのか?
- なぜ私は先生と呼んでいるのか?
- なぜ私は先生にひかれているのか?【私と先生はつながっている?】
- 明治の精神とは?
- 人間の二面性(善と悪)
- 我執(エゴイズム)について
先生が自殺した理由はなんなのか?
一般的に先生が自殺した理由は、「先生がお嬢さんを奪って、Kを自殺に追いやった自責の念」と言われています。
しかしながらそれは浅い読みだと思っています。
先生の自殺を考える上で、下記の2つのキーワードが重要です。
- 黒い影
- 明治の精神に殉じて
明治の精神は別の項目を設けているので、ここでは黒い影について詳しく説明します。
黒い影は、先生は親友のKを裏切り、お嬢さんを得たが、Kの自殺による罪の意識のため、自己苛責の退隠の生涯を過す間に、彼の目の前にちらつきます。
例えば下記の言葉から分かります。
私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲って来るのです。私は驚きました。私はぞっとしました。しかししばらくしている中に、私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。
またときに黒い影は驚くべき強制力をもって、彼の行動を強いて、命じます。
私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言で直ぐぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。
ではいったい黒い影とはなんでしょうか?
実は「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心」とあるように、先生はKが死んだ時点で、すでに自殺をしようと決断していたと思うのです。
「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心」とはシンプルに言えば、すでに死した人間が生きているという非常に矛盾した状態です。
これはKの死後は自らもいつか死ぬ(自殺する)運命にあるのだという宣言だと思うのです。
しかし生への執着が、Kとは違う方向へと引っ張っていた。
もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがた顫え出したのです。 それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした。
とあり、Kの手紙がある。
それを読んだときにいまだに自分=エゴイズムから出ることができないでいます。
そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。私はちょっと眼を通しただけで、まず助かったと思いました。
ここから分かるように、自らがKを自殺においやった事自体よりも、外聞や世間体、またそれに伴う、恥辱をおそれている。
なぜKは自殺してしまったのか?
Kが自殺したのは失恋したからではないです。
また親友である先生に裏切られたからでもないです。
僕がKの自殺理由を考えるときに注目しているのは、Kに“恥の感覚”があったのでないかと思っています。
恥の感覚は、下記から引き出されます。
- 「自らが信じていた道」を貫き通せない自分。自己矛盾している自分。
- 親友である「私」に相談することで他力になった。
まずは前者について考えてみます。
Kには全てを犠牲にしてでも追求したい「道」というものがありました。
では道とはなんでしょうか。
道についての説明は、こころ内では具体的には示されてはいません。
というか道とはいったいなんなのか本人には分かっていなかったのだと思います。
その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。
つまり「道」という言葉は漠然としてはいるが、年の若い彼らにとっては尊い響きがあり道に向けて動こうとする意気込みがあったわけです。
さてKを語る上で重要な言葉は「精進」です。
そしてこの精進という言葉が、「道」を解釈する上で非常に重要です。
寺に生れた彼は、常に精進という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。
Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いてみると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨げになるのです。
つまりKの道とは「すべてを犠牲にしてでも追求すべきもの」であり、それは例えば、「欲を捨てて真理を追い求める」ことです。
そのためには下記のような行動さえいとわないようなふうに語っています。
霊のために肉を虐しいたげたり、道のために体を鞭うったりしたいわゆる難行苦行の人
ところがKの前に立つふさがったのは、彼が遠ざけるべき煩悩だったのです。
そのきっかけとなったのは、お嬢さんに好意をもったことです。
お嬢さんへの恋心が芽生えたことによって、Kが目指す「道」との間で葛藤が生じ、自分の中に矛盾が生じたのです。
後に先生が年少の「私」にむかって「恋は罪悪ですよ」と謎のような言葉を繰り返すのは、恋がKの自殺のきっかけになっていることを暗に示しているかと思います。
つまりここで出てくるのは、「現実と理想の衝突」です。
理想とは道に進むべきというところで、現実は目の前の煩悩・恋に悩んでいるという点。
ここKは自己分裂している状態ですね。
Kは精進する人間で、非常に自分に厳しい人間ですから、この2つの状態には恥ずかしい気もちがあったかと思います。
でもこの時点でKは自殺していないわけですから、Kは自殺を考えていたかもしれませんが、これが直接的な要因ではありません。
では自殺の決定要因になったのはなんでしょうか?
それは私がお嬢さんに婚約を申し出たことを知った時点です。
ではなぜそれがきっかけになったのかというと、自分の弱みをさらけ出した親友あるいはKにとっての理解者に裏切られたからです。
ここで重要なのは、自殺の原因は「理解者に裏切られたから」ではありません。
Kは自らが乗り越えるべき弱みを、理解者だと思っていた人物に相談することで、頼り(他力本願)にし、さらに自分の弱みをさらけ出したその人物に裏切られたという恥ずかしさがあったのではないかと思っているのです。
それはつまり、己自身で解決ができずに他者に頼ってしまった”恥”があったのでないでしょうか。
つまり精進して自らの道を孤独に突き進むのがKの理想だとしたら、煩悩に囚われ自己矛盾・自己分裂した状態で、さらに自分の弱みを他力にしてしまった、この過程で生まれた恥の感覚が、生きることへの恥につながったのではないかと思います。
そしてその時に覚悟という言葉が彼の頭にひらめいたのではないでしょうか。
覚悟、――覚悟ならできている
そして覚悟をもって死ぬことさえできれば、自己矛盾した自分を貫き通せると思ったのではないでしょうか。
ちなみに僕は、Kの自殺原因に、決して孤独ではないと考えています。Kの生き方や言動をしっかり読み込んでいけば、孤独・寂しいから自殺するような人物ではありません。
反対に己の道を追求する人間は、孤独であるが故、孤独である感覚は逆に歓迎すべきこともわかるでしょう。
孤独・寂しさではなく、煩悩によって己の生き方に自分矛盾が生まれ、己が目指していた道にたどり着けない、一種の恥・あるいは絶望からの再生を目指して自殺したのではないか、というのが僕の考えです。
なぜ私は先生と呼んでいるのか?
先生とは職業上の先生ではありません。
ろくすっぽ仕事もせずに、親の財産を食い潰しながら暮らしている、世間的には遠ざけられる存在でしょう。
だが私という青年にとっては先生は全く違った存在だったのです。
先生とは人生の深い部分を知り、経験を積んだ尊敬すべき人物にうつっていたわけです。
その人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐ふところに入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。
私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益であり、教授の意見よりも先生の思想の方をありがたく拝聴している
つまり人生の年長者として、経験を詰んだ人を、尊重の精神に基づいた、至って純粋な経緯からくるものだったのです。
だからこそ二人の間柄には、一般的な「教える人・教えられる人」という上下関係はないわけで、「人間らしい温かい交際」が成立する関係性だったのです。
なぜ私は先生にひかれているのか?【私と先生はつながっている?】
「私」は小説の序盤から、なぜか不思議と先生へひかれていきます。
先生はいつも淋しい感じがただよっており、どこか近づきがたい印象がありますが、「それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた」とあるように。
では「私」の先生に対する興味はいったいどこから湧いてくるのでしょうか。
先生は世間に有名な思想家や政治家であるわけではありません。
だからこれから世の中にでる若者からしたら、仕事の口を見つけてくれない先生は、つきあっていて得な存在ではありません。
つまり私は「利害」という関係から、先生に近づいているわけではないのです。
そうなると、私と先生はどこか深いところでつながっているのでしょう。
ここでひとつの仮説を伝えるとするならば、私と先生が同一人物ではないかということ。
冒頭、私と先生の出会いの場面が象徴的です
西洋人を連れていた先生を好奇の目でみていたのがきっかけで私の目に飛び込んでいたのだが、私は先生をどこかで見たことがあるような気がしていました。その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなかった。しかしどうしてもいつどこで会った人か想い出せずにしまった。
ではどういう理由で漱石は『私と先生が同一人物のように』みせているのか。
理由は「こころを未来にひかられた小説」として扱いたかったからだと、私は思います。
こころは先生の固有=私だけの経験を、主人公に教えることで
なぜそんなことをするか、それは先生の経験を次世代に引き続がなければ、終わってしまうからです。
先生がとくに伝えたかったのは、「人間」という悪ともなれば善ともなる、またエゴイスティックで、温かい愛も与えられる、この異様な存在について、次の世代に残したかったのではないかと思う。
つまり先生の精神性や感情というのを一つの経験として、私のなかに取り込むことによって、未来に教え(=遺書)を受け渡したかったのではないでしょうか。(ブッダが弟子に教えを残すような感覚で)
この循環こそ『私と先生が同一人物のようにみせた』理由であるのではないかと思っています。
明治の精神とは?
「明治の精神に殉死する」
先生の自殺のきっかけとなったのが「明治の精神」です。
私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。
妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。
最初、僕は「明治の精神」が自殺を選んだ理由、であることにすごく唐突な感じを抱きました。
さてそもそも明治の精神とはいったいなんなのでしょうか。
歴史に詳しい人は、武士道精神やら日本精神やら大和魂と考えるかもしれません。
でも僕は「明治の精神」がそういったまさに「精神」的なものではなくって、明治という時代が有していた「自己矛盾」、あるいは「偽りの精神」、この象徴を言葉として表現しているのだと思います。
なぜそうなのか。それには明治維新から明治天皇が崩御されるまでの45年間を振り返る必要があります。
日本国は、開国後、西洋の列強の仲間入りするために、政府主導で強烈に富国強兵・西洋化を押し進めました。
良い面として、異文化を取り入れてた日本は一気に近代化を推し進めることができました。それによって日清戦争、日露戦争と世界との戦いを優位に進めることもできて、当時の日本は「成長・強い・近代化」的な扱いができたと思います。
しかしながら影の面では、西洋の文明を取り込むことは、一種の模倣であり、昔ながらの日本の文化面を排除することで成立した部分もあります。おそらくそこには多くの犠牲がともなったことでしょう。
つまり、明治政府が強烈に進めた西洋化政策は、日本が固有で持っているものからの脱却からなされるものであって、そこには一種の自己矛盾や、偽りがあったのだと思います。そしてその明治精神を代表していた人間こそ、明治天皇や乃木将軍だったのでしょう。
そんな時代を生きてきた先生自体も、実は「自己矛盾」「偽り」とともに生きてきたのです。そう考えると「明治の精神」=「自己矛盾・偽り」=「先生」という図式にもなり、明治の精神を象徴した彼らとともに、殉死するというのは、なんとなく理解できます。
ただ僕はあくまで明治の精神に殉死するとは、己が死ぬための勝手な理由づけなのだと思います。
つまり単なるきっかけだったに過ぎないのです。先生はいつでも死ぬ準備が整っていたのだけれど、その勇気もきっかけもなかった→「明治の精神を尊重していた人が死んだ。とうとう自分の知っている時代を象徴する人が死ぬ時が来た・・・じゃあとうとう俺もかな?」と冗談めかしく思いながらも、それは決して冗談で終わるわけではなく、それが先生にとっては、立派な「大切な死ぬきっかけ」だったのかもしれません。
今の時代で言うと、美空ひばりやらアントニオ猪木やらと時代を尊重する人が亡くなる、そんな感覚だったのかもしれません。
人間の二面性(善と悪)
こころでは、『善(表)と悪(裏)』という人間の2面性も描いています。
具体的には『人間は一見優しく見えた人も、なにかのきっかけでころっと悪い人間に変わる』こんな認識です。
先生は悪人を下記のように表現しています。
悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。
上記のことは、遺書の前半に出てくる叔父のことを指しています。
先生は過去に血を分けた叔父から裏切られた過去をもっているのです。
私は他に欺かれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否いなや許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供の時から今日まで背負わされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。
「先生」は地方の資産のある一人息子でした。
学業のために東京に学生として上京した先生は、突然両親を亡くします。
その時優しい声をかけてきたのが、叔父でした。
叔父は先生が学問を専念できるよう、実家や財産を全て面倒をみてくれます。
実家に帰ってくると、先生のためになにかと世話をしてくれる存在、つまり私を全面的にサポートしてくれる優しい人=善人でした。
ところが善人とは表の顔にすぎなかったのです。
彼はもう一面、つまり悪人という裏の顔をもっていたのです。
さきほど先生のいわれた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか。
金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ。
叔父はある帰郷のおり、従姉妹すなわち叔父の娘と結婚しろと言い出すようになります。
私は何度も断るのですが、叔父は私が実家に戻るたびに「縁談話」繰り返します。
私は徐々に叔父に対して不信感を抱きはじめるのです。
高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。
私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。二度目には判然断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。彼らの主意は単簡でした。早く嫁を貰ってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。
単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば後には何も残らない、私はこう信じていたのです。
ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好い顔をして私を自分の懐に抱こうとしません。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。
叔母も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
事実として叔父は、私に相続されたお金を自らの懐にいれるために、娘と計略結婚させようとしていたのです。
だが断り続ける私に対して、自分の思い通りに運ばないとわかると手のひらをかえすように、突然冷たい態度をとるようになったのです。
さらに叔父は、妾をつくりながら、一時事業で失敗したのを、私の財産をごまかして使っていたのです。
最初は善人の仮面をかぶって近づいてきた叔父。このような人間の悪の部分を先生の個人的な体験によって学んだわけです。
そしてさらにいえば、二面性を有しているのは他人だけではなく、私自身だってそうなのです。
それが発覚するのは、私がKを出し抜いてお嬢さんと婚約を申し出たときです。
先生が一番軽蔑していた叔父と同じ「人間を裏切る」行動をとってしまうのです。
私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪のろうより外ほかに仕方がないのです
だからからこそ、先生は下記のように、人間一般に対する非常な不信感につながっているわけです。
他人を信じれない、だけでなく、自分自身を信じられない、だけじゃない。
分からなさをもつ人間全般を信じられないのが、先生でもあります。
信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです
私は他に欺かれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否いなや許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供の時から今日まで背負わされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。
しかし私は復讐をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う
なんという厭世的な考えでしょうか!
人間は最初から善悪があるわけではなく、なにかしらのきっかけによって人間性がまるっと変わるような極端な二面性を有している。
それが叔父、さらに自分という存在をきっかけに強い認識として「先生」のこころにきざみこまれたのでした。
これはすべてエゴイズムからきている可能性が高いのです。
我執(エゴイズム)について
こころでは「先生」の恋と罪、そして「先生」が過去に犯した自らの罪を暴露しながら、人間の内部の我執(エゴイズム)を描いた作品とも言われています。
人間のエゴイズムとは、人間の自己本位性とも言われて、「わたしがわたしであるため」の要素でありつつ、他者を自らに取り込めるほどの強力かつ力動的なエネルギーがあります。
本作では例えば、「自分の恋を成功させるためにKを出し抜いて、婚約を申し込む」
先生は己のなかに色濃く残る我執(エゴイズム)の念に捉えられ、また捨てることができない苦しみ、絶望にさらされることになります。
そして過去に犯した罪の意識が、まるで地獄の業火のように彼を責め立て、自分を攻めれば攻めるほど、自分自身に巣食うエゴに悩まされていくようになります。
しかしながら人間は生きている限りこの我執(エゴイズム)から逃れることができません。
逆に我執(エゴイズム)をもっているから人間は悪くなる可能性があるのです。
僕は漱石が描いた、罪の意識、またエゴイズムこそ、動物と人間を隔てる”人間性”の根源であるように感じます。
「こころ」を深掘りして徹底解説!(たかりょーが魅力を伝えます)
この章ではこころをより深掘りするために、たかりょーが気になった言葉や引っかかった部分を解説していきますね。
- 淋しい人間とは?
- 先生と奥様の温かい世界
- 命について、自殺とは不自然な暴力
淋しい人間とは?
小説には「淋しい人間」という言葉がでてきます。
私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。
ここで出てくる「淋しさ」とは一体なんでしょうか。
当然ながら淋しさとは、「ほとんど世間と交渉のない」という意味での孤独であるに違いありません。
なぜ先生はそこまで「淋しさ」を受け入れているでしょうか。
下記の言葉がその一端を表しているようです。
かつてはその人の膝の前に跪まずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載のせさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充みちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わなくてはならないでしょう。
先生は終始孤独だったと思います。
叔父に裏切られて、親友を自殺に追いやった過去があります。(自らがもっとも嫌悪していた人種である叔父と同じ行動を取り)
酒浸りになり、書物の中に身を投じようともしました。でもわざとこんな真似をしたという意識がどこかにあり、己れを偽っている愚物=仮装状態としか考えらず、つねに不愉快な己から逃れることができない。
一番愛していた妻、また信頼すべき妻に対しても、自殺に追いやったのだと真実を告げることもできず、「Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょう」と、誤解されている始末。(真実は、自殺したKに心をさいなまれ続けているのですから)
彼は誰にも、自分の心を打ち明けることができず、卑しい己とずっと向き合い続けている・・・。
つまり、孤独であったのです。
世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。
ひとはだれしも、他人と心の底からの交流ができずにいると、このような淋しみを受けるしかないのかもしれません。
ある意味、孤独とは先生のようなあらゆるものから切り離され宙ぶらりんな状態のことを指すのだと思います。
- 親戚に裏切られている。
- 友人を自殺に追いやる罪まで犯している。
- 好きな女性もろくに愛せない。
こういった事実は、先生の淋しさにつながっていると思いますが、一番は、己の罪から逃れるために孤独の殻に閉じこもっている、この状態こそ、先生の本当の「淋しさ」につながるのではないでしょうか。
先生と奥様の温かい世界
先生は奥さんに対しては暗い世界を見せようとはしていません。
彼らは至って平和な世界として描かれています。
私の知る限り先生と奥さんとは、仲の好いい夫婦の一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論わからなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かのついでに、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。先生は「おい静」といつでも襖の方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚だ素直であった。ときたまご馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間あいだに描えがき出されるようであった。
先生は時々奥さんを伴つれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根から貰った絵端書をまだ持っている。日光にっこうへ行った時は紅葉もみじの葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
こういった温かい平和な生活も暮らしているのです。(この二人の関係は「門」の宗助とお米の生活にも近寄った部分がある)
ただし暗い世界の反対面だということを忘れてはいけません。
人間はこれだけ妻に優しく接することができても、いざというときにKという人間を裏切ることもできるです。
おそらく先生は静さんに優しくすれば優しくするほど自分がもつ内面の醜さに心を痛めていたのではないかと思います。
命について、自殺とは不自然な暴力である
こころは、漱石の文学的にも非常に命を扱っている作品です。
具体的には私の父親が病気で危篤状態である点、また先生とKの自殺など。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭ですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆もろいものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」
漱石はこころを通じて、命について考えることも私たちに敷いています。