こんにちは、年間100冊以上の小説を読むたかりょーです。
本記事では、以下の読者さんに向けた記事をご用意しています。
- この記事は下記のような方におすすめです。
- 夏目漱石の『門』を読もうと思ってるんだけど、事前にどんなところが面白いのか、簡単にポイントをしりたい。
- これから夏目漱石の『門』を読もうと思ってる。どんな小説なのか簡単に解説してほしい。
この記事を読めば、読むポイントを理解することができます。
門とは?
「門」は、明治43年1910年の3月から6月にかけて朝日新聞で連載された作品です。
小説『門』ってどんな作品?前期三部作で門の立ち位置は?
門は「三四郎」と「それから」に続く、漱石の前期三部作の最後の作品となります。
「それから」では友人の平岡を裏切って、妻三千代を奪って結ばれる作品です。
実は門とは、そのテーマ(友人の妻を略奪した)という点を引き継ぎ、その後の夫婦生活を描いた作品でもあるのです。
つまり「それから」の後日談として読み解くこともできます。
「門」は弟子の鈴木三重吉の体験がもとになっている?
夏目漱石の「門」は鈴木三重吉の身辺で起こった出来事を主要な素材として書かれたと言われています。 鈴木三重吉とは、週一回木曜日に漱石宅に足を運んでいた、漱石の門下生の一人です。
執筆当時、三重の近辺で2つの出来事がありました。その二つの出来事とはともに、三重吉の父親が死去したことによって生じたものです。
- 家宅の売却をめぐる問題。
- 鈴木の学費の問題。
1に関して言えば、宗助の父親が死んだあとに、叔父との間に起こる遺産相続問題。
2に関して言えば、大学在学中の弟の子六が、伯父方の家から伯父の死により、宗助のところに相談に来る形で表現されています。
上の2つは漱石自身に暗示を与えたともに、それを変形し、作品にとり入れられ生かされてたのです。 ただし全部が全部鈴木三重吉の体験をもとにしているのではなく、漱石の体験も随所に込めれれている作品でもあります。
小説『門』にはどんなテーマがあるの?
「門」は過去の罪が現在に強く影響する、という重いテーマがあります。
具体的に罪とは『友人の妻を略奪して結ばれた』というもの。
作品としては山の手の崖の下で、世間から遠ざった夫婦2人(宗介とその妻御米)が、ひっそりと家庭生活を営む姿が描かれています。
小説は非常に静かに進んでいきます。
吉本隆明が「漱石が日常生活で有り得べき人物を描いた作品」と称すほど、宗介とその妻御米が、穏やかに流れていく日常が、漱石の巧みな表現で描かれていきます。
2人だけの世界が成立して、ひっそりと共生しているようです。
世間から隔絶した小さな穴蔵で、彼らなりの家庭生活があります。
そこはどこか融和に満ちているようで、残酷さは全くありません。
ただ光と影がはっきりした一幅の絵のように、光の裏側に、色濃い過去の深みが感じられます。
過去に犯した罪が、確実に彼ら二人を永遠に追いかけ回しているのです。
例えば夫婦には子供に恵まれない。財産を誤魔化される。など。
光の世界=日常はとても静かなのですが、その反対の面、影の世界=過去の罪悪が日常に滑り込んでくる世界となると、とても残酷に描かれているのです。
小説『門』のあらすじ
野中宗助と妻の米は崖の下で世間から隠れるかのようにひっそりと暮らしています。
宗助は、かつての親友である安井の妻である御米を得た。
二人はその罪ゆえに、ひっそりと暮らさざるをえなかったのです。
そこに宗助の実弟で、叔母の佐伯に世話になっている高等学校三年生の小六がやってきます。
用付としては、小六は大学進学を希望しているが、佐伯家の経済的な余裕がなくなって、彼のために、これ以上の学資を出すことができないと言われたことを相談にきたのです。
理由としては、叔父が突然なくなってしまったからです。
だから叔母と話し合ってほしい。というもの。
生来のめんどくさがりの宗助は、小六の依頼をなあなあに流していたのですが、最終的には彼を引き取って一緒に暮らすことになります。
そんなある日、偶然のきっかけから、崖上に住んでいる大家の坂井と知り合いになります。
そして友人の安井の消息をその坂井から聞くこととなります。
宗助は過去から逃れるかのように、鎌倉の禅寺へ心の平安・救いを求めて座禅に行きます。
ただ結局悟りを得ることもなく、帰ってきます。
米は何も咎め立てすることはしません。
春が訪れた頃、小六は坂井の書生になることになり、お米は季節が新しくなったことを喜ぶが、宗助はじきに冬になると答えます。
小説『門』の登場人物
野中宗助
妻の御米と一緒に静かに暮らしている。
週6日で役所の行き通いを続け、朝に出て四時に帰宅するという規則正しいが非精神的に生きる男。
たまにの休日も、家でのんびりと暮らす。
親友の妻を奪って結婚したことから、後ろめたさを感じ、明るい生活を望まなくなっている。
基本的に無気力で、ことを荒立てることを嫌う。
父の遺産相続を叔父に任せている。
御米(およね)
宗助の妻。穏やかな妻として、宗助を支える存在。
かつては宗助の親友であった安井の内縁の妻であった。
子どもを立て続けに亡くした原因が自分にあると信じ、胸に暗い影を落としている。
小六
宗助の実弟。性格は性急でこうと思うと突き進むタイプで、ただころっと性格が変わるところがある。
伯父方の家にやっかいになっていたが、伯父の死により、学費のことで兄の宗助を頼ってくる。
頭は明瞭で賢いのだが、若さも合間ってか感情先行で、こうと思うとどこまでも突入するところもあるため、宗助は過去の自分のような性急なところがある点に、少々不安を感じている。(例えば一変筋道が通ると、それを最後まで生かさないといけないようにする)
安井
越前の国の出身。宗助のかつての友人。二人は高等学校で知り合いになる。
御米は内縁の妻だったが、宗助に奪われる。その後、二人の元から姿を消す。
詳しくは十四で。
坂井
宗助の住む家の屋主。金持ちであり、穏やかな生活を過ごす。
家に泥棒が入ったことがきっかけとなって宗助と縁を持つようになる。
叔父佐伯
宗助の叔父。
事業を行っているが、失敗をすることも多い。
宗助の父親が死んだときに、財産の処分などを請け負ったが、金額等を明かそうとしなかった。
安之助
叔父叔父の一人息子で、この夏大学を出たばかりの青年。
家庭が裕福だったが故に、温室育ちで世間には疎い性格。
迂濶さあるが鷹揚な雰囲気も持っており、その趣を具えて実社会へ進出する。
小説『門』はここ”おすすめ”ポイント!
サスペンス的要素!「宗助と御米の過去」が気になってどんどん先を読めちゃう!
「門の面白さはなに?」と尋ねられたら、僕はかならずこう答えるようにしています。
「宗助と御米のふたりには暗い過去がある。それは小説を読みすすめていくことで、その過去を暴いていける。その緊迫感とワクワク感」
つまりサスペンス的な読書の楽しみが、門にはあるのです。
例えば下記の文章。
「本当に好い御天気だわね」と半ば独言ごとのように云いながら、障子を開けたまままた裁縫しごとを始めた。すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡もたげて、
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくら容易やさしい字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今らしくなくなって来る。――御前おまいそんな事を経験した事はないかい」
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。
前半は何気ない日常会話。
でもふと最後に「神経衰弱」という言葉がでてくる。
明らかな違和感。
でも二人にとっては神経衰弱という言葉が、日常茶飯事なのか、何もなかったかのように物語が進んでいく。。。
かと思えば、下記のような文章。
「何がそんなにおかしいの、清」と御米が障子越に話しかける声が聞えた。
清はへえと云ってなお笑い出した。
兄弟は何にも云わず、半ば下女の笑い声に耳を傾けていた。
しばらくして、御米が菓子皿と茶盆を両手に持って、また出て来た。
藤蔓の着いた大きな急須から、胃にも頭にも応こたえない番茶を、湯呑ほどな大きな茶碗に注ついで、両人ふたりの前へ置いた。
「何だって、あんなに笑うんだい」と夫が聞いた。
けれども御米の顔は見ずにかえって菓子皿の中を覗いていた。
「あなたがあんな玩具を買って来て、面白そうに指の先へ乗せていらっしゃるからよ。子供もない癖に」
宗助は意にも留めないように、軽く「そうか」と云ったが、後あとからゆっくり、
「これでも元は子供があったんだがね」と、さも自分で自分の言葉を味わっている風につけ足して、生温い眼を挙げて細君を見た。
御米はぴたりと黙ってしまった。
「おれももう一返小六みたようになって見たい」と云った。「こっちじゃ、向がおれのような運命に陥るだろうと思って心配しているのに、向じゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」
上の文は「子供」という言葉が禁句でもあるかのように、軽快に進んでいたはずの会話がぴたっと止まる。
このように、なにか強い過去にあっただろうと思わせる文章が小説の至るところにでてきます。
・なぜ二人は世間から隔たって、ひっそりと暮らしを余儀なくされたのか?
・二人は互いをなくてはならない存在として大切に扱っている。その関係になったのはなにかあったからかな?
このように小説をよんでいくうちに、「なぜ」が積み重なっていきます。
そして漱石は実にうまく小説の中に「なぜ」の種をまいているんですよね。
どう現在に「暗い過去」が滑り込んでくるのか?
上で伝えたように、門は穏やかに流れる日常の一方で、重層低音のように過去が夫婦にまとわりついてます。
そして門ではどうやって現在に過去が入り込んでくるかを意識しながら読むと面白い発見があると思います。
実際に漱石は実に巧みに、『現在に過去が滑り込んでくる仕掛け』を施しています。
例えば
・小六がやってくる→関係を切っていた叔母含めた親戚が二人の穏やかな生活に割り込んでくる。
・家主の坂井を通じて、過去の安井との消息が分かり、二人の生活
つまり平穏な現実な世界に、無邪気な仲介者を通じて、影(過去)が入り込んでくるわけです。
小説『門』の個人的感想
「宗助」と「御米」の二人だけで完結する世界って円を想像させる
二人の生活はまるで蟄居生活を送っているかのようです。
世間とはろくに交渉することもなく、まるで二人だけの世界で生きているかのよう。
例えば、下記の崖の表現なんかはまさにそうです。
崖は秋に入っても別に色づく様子もない。ただ青い草の匂が褪さめて、不揃にもじゃもじゃするばかりである。薄きだの蔦だのと云う洒落ものに至ってはさらに見当らない。その代り昔の名残の孟宗が中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。
僕はこの二人だけで完結する世界を思い浮かべるたびに、円を思い出します。
円とは丸です。
つまり二人が向き合って、同じ軌道をくるくると回っていて、そこに調和があります。
他者はそこの円には入りこむことができないわけで、穏やかな世界で、とても静かな場所なわけです。
これを夫婦の理想世界と考えられる気もします。
「運命」の恐ろしさ
そうして、かく透明な声が、二人の未来を、どうしてああ真赤に、塗りつけたかを不思議に思った。
今では赤い色が日を経へて昔の鮮かさを失っていた。
互を焚焦こがしたほのおは、自然と変色して黒くなっていた。
二人の生活はかようにして暗い中に沈んでいた。
宗助は過去を振り向いて、事の成行を逆に眺め返しては、この淡泊な挨拶が、いかに自分らの歴史を濃く彩どったかを、胸の中であくまで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。
「宗助」と「御米」は友人である、安井を裏切っています。
そして3人の子供をなくしています。
ただそれは人間の力が到底及ぶものではなく、「運命」という言葉に追わせている。
穏やかな日常生活を描く漱石
「門」は実に巧みに穏やかな日常生活を描きとっています。
小説の筋としては、正直これと言った事件が起きるわけではありません。
例えば冒頭にある、秋のとある日曜日の夫婦のやりとりが、作品の穏やか性みたいなのを物語っています。
宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。・・・たまの日曜にこうして緩空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫しごとをしている。 「おい、好い天気だな」と話しかけた。細君は、「ええ」と云いったなりであった。宗助も別に話がしたい訳でもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。しばらくすると今度は細君の方から、「ちっと散歩でもしていらっしゃい」と云った。しかしその時は宗助がただうんと云う生返事を返しただけであった。
この後、有名な「近代の近の字をどうやって書くの?」など夫婦の会話のやりとりがしばらく続くのですが、極々平凡で、まるで僕らの日常生活にもありそうで、小津さんの映画のワンシーンのようです。
実に悠々とした雰囲気があって、あたたかい風が家に流れ込んでいるような気がします。
実際、このような細かいエピソードを積み重ねていくことで門という小説は書き上げられているわけです。
そしてそれが見事に「穏やかな夫婦生活」として結実しています。
二人の間には子供がいませんが、(その理由はエピソードとして明かされます)愛情というか、信頼というか、心の底で通じ合っているようにみえます。
主人公宗助の特徴は?
宗助の魂の抜殻のように。行動を丁寧に描いている
小説の前半部分で、宗助の習性という行動パターンみたいなものを丁寧に描いています。
気にせずに読めば「まあまあこんな人もいるだろう」的に読み進められるかも知れませんが、よくよく読んでみると彼の生活にはゾッとする何かがあります。
まるで徘徊者の彼の行動は社会的に放擲されているかのようです。
彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通には電車を利用して、賑かな町を二度ずつはきっと往ったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体と頭に楽らくがないので、いつでも上の空で素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中に活きていると云う自覚は近来とんと起った事がない。もっとも平生は忙がしさに追われて、別段気にも掛からないが、七日に一返の休日が来て、心がゆったりと落ちつける機会に出逢うと、不断の生活が急にそわそわした上調子に見えて来る。必竟自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がないんだという結論に到着すると、彼はそこにいつも妙な物淋しさを感ずるのである。
それこそ行人の直のように「魂の抜殻」だと言わざる追えません。
、たった一日出会っても、彼はやりたいことが多すぎて、結局、何もやらずじまいで日曜がくれてしまう、気晴しや保養や、娯楽もしくは好尚こうしょうに
運命論者的な立ち位置
随所に「運命論」的で、どこか厭世的な態度が特徴的です。
例えば小六とお米と食卓を囲んでいる時。
伊藤博文がピストルで暗殺された話に及んだ際、「どうして、まあ殺されたんでしょう」と御米が聞いたことに対しては、宗介は「やっぱり運命だなあ」と言ってしまう。
そして「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」
未来的な希望はなく、ただ「このままの私で終わるだろう」という雰囲気があります。
また同僚から訪日したイギリスキチナー元帥と自分を比較した時には、まるで自分の運命を呪っているかのように考えています。
ああ云う人間になると、世界中どこへ行っても、世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういう風に生れついて来たものかも知れない。自分の過去から引き摺ずってきた運命や、またその続きとして、これから自分の眼前に展開されるべき、将来を取って、キチナーと云う人のそれに比べて見ると、とうてい同じ人間とは思えないぐらい懸かけ隔へだたっている。自然の経過がまた窮屈に眼の前に押し寄せて来るまでは、忘れている方が面倒がなくって好いぐらいな顔をして、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。
これは全て、自分が過去に友人を裏切ったことが原因になっていると思うのですが、ただ「過去が現在の生活に徹底的に影響する」という考え方は、非常に強く感じられます。
暗い運命を背負った彼は、精神的な罰則を受けるわけで、彼はその運命を受け入れては、このような腑抜けた状態になっているわけです。
また自分の弟に対する想いをはせる部分もはっとさせられます。
心のうちに、当時の自分が一図に振舞った苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起させるために、とくに天が小六を自分の眼の前に据すえ付けるのではなかろうかと思った。そうして非常に恐ろしくなった。こいつもあるいはおれと同一の運命に陥いるために生れて来たのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。時によると心がかりよりは不愉快であった。
彼には明らかに過去が「重み」となっているのであって、常に彼の思考パターン・価値観に力をもっていて、全て厭世的な何かが付き纏っているのです。