ムハンマドの台頭とイスラームの誕生は、6〜7世紀におけるササン朝ペルシアとビザンツ帝国の戦争と密接に関係しています。この戦争が、アラビア半島を取り巻く大国にどのような影響を及ぼし、結果的にムハンマドの活動とイスラームの拡大に道を開いたのか。そのあたりを今回紹介します。
キーワード
- ササン朝ペルシア(ゾロアスター教)とビザンツ帝国
- 東ローマ・サーサーン戦争
- メッカ・メディナ
- ヒジュラ(聖遷)→イスラーム暦元年622年
- 「ただひとつの神アッラーを信じること」と「すべての人は神の前で平等だ」
- メッカ奪還
- ウマ

歴史を読み解く原理原則:
ある人物の台頭には歴史的な出来事がつながっている。→歴史上の偉大な人物や思想家、宗教家、政治家の登場は、偶然ではなく、時代背景や歴史的な出来事と密接に結びついている。
【きっかけ!】ササン朝 vs ビザンツ帝国の戦争(6〜7世紀)
長年にわたり続いた大国同士の戦争が、思わぬ形でイスラーム誕生の舞台を整えることになります。
ササン朝ペルシア(ゾロアスター教)とビザンツ帝国(東ローマ・キリスト教)は、中東・東地中海世界の覇権を争うライバルでした。
特に6世紀末〜7世紀初頭のホスロー2世(ササン朝)とヘラクレイオス(ビザンツ)の時代に戦争が激化。602年から628年にかけて行われた「東ローマ・サーサーン戦争」は、東ローマ帝国とサーサーン朝が西アジアの覇権をかけて争った、非常に大規模な戦争でした。
この戦争は長期化し、軍事力・経済力が大きく消耗。シリア、エジプト、メソポタミアなどの地方は戦場となって政治的混乱と住民の不満が増大し、都市や交易ルートも荒廃しました。
その結果、比較的安全だったアラビア半島の紅海沿岸(ヒジャーズ地方)の都市、特にメッカやメディナに商人やキャラバンが立ち寄るようになり、これらの都市が経済的に発展することになります。
こうした状況のなか、既存の宗教・政治秩序に不満を抱く人々が、新しい思想やリーダーを求めるようになりました。ムハンマドが登場し、イスラームが誕生する土壌がこのとき整っていったのです。
メッカ・メディナの台頭【にぎわい始めた理由は?】
アラビア半島の西の方、紅海のそばにあるメッカやメディナは、昔から東西南北のキャラバン(隊商)たちが通る場所にありました。ちょうど交差点みたいな場所です。
とくに先ほど伝えた、7世紀初頭、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国との長期戦争により、シリアやイラク、イエメンなどのふだんにぎわっていた交易ルートが混乱していました。
そんな中、比較的安全だったメッカには、だんだんと商人や旅人が集まってくるようになります。そうしてメッカは経済的にも豊かになり、だんだんと宗教や文化の面でも大事な場所になっていきました。
もともとからメッカは「宗教の中心地だった!」◎宗教的・商業的中心地
メッカは、実は昔から宗教の中心地でもありました。町の真ん中には「カアバ神殿」という聖なる建物があり、多神教信仰の巡礼地(=いろんな神さまを信じる人たちが巡礼にやってくる場所)だったんです。
そして、この神殿をうまく使って商売していたのが、ムハンマドが生まれた「クライシュ族」という部族でした。彼らは巡礼に来た人たちに物を売ったり、交易をしたりして、交易・宗教ビジネスでお金と権力を持っていました。
経済発展とともに進んだ「貧富の格差」
メッカなどの都市では交易によって富を得た商人たちが台頭する一方、貧しい人々は取り残され、急激な格差と社会の分断が進みはじめます。
かつては貧しくても助け合って生きていたのに、お金を得たことで人々の心が離れていく――そんな状況が、当時のメッカにはあったのです。
そこで登場するのがムハンマド(マホメット)!
そんな時代に登場したのが、あのイスラム教で有名なムハンマドです。
そもそもムハンマドとは?
ムハンマドはメッカのクライシュ族(商人の一族)に生まれます。父はムハンマドが生まれる前になくなって、母も幼い頃に他界します。その後は、祖父、そして叔父に育てられます。
大人になると、キャラバン(隊商)の仕事に関わるようになり、誠実な性格から「アミーン(信頼される人)」と呼ばれるようになります。
15歳ごろから交易の旅に出るようになり、25歳のとき、仕事を通じて知り合った裕福な女性・カディージャと結婚しました。この結婚が、ムハンマドの人生に大きな支えとなっていきます。
項目 | 内容 |
---|---|
出身地 | アラビア半島のメッカ(商業都市) |
本名 | ムハンマド(「マホメット」は西洋風表記) |
生まれた年 | 約570年ごろ(メッカ) |
死亡年 | 632年(メディナ) |
肩書き | 預言者、イスラームの創始者 |
社会背景 | メッカは交易で繁栄→貧富の差・社会不安が広がっていた |
転機 | 40歳の頃、瞑想中に天使ガブリエル(ジブリール)から「唯一神アッラーの啓示」を受ける |
教え | ただ1つの神(アッラー)への絶対服従と平等、「施し」や「正しい生き方」を重視 |
迫害と移動 | メッカで迫害を受け、622年にメディナへ移住(ヒジュラ=聖遷) → この年がイスラーム暦元年 |
統一と死 | メディナで力をつけてメッカを再征服 → アラビア半島のほぼ全域を統一。632年、死去。 |
【610年ごろ】ムハンマドの預言開始
さてムハンマドが40歳になったころ、心の中にモヤモヤしたものを抱えていました。
それはメッカの社会は豊かになった一方で、お金持ちとそうでない人との格差が広がり、人々の間に争いや不公平が生まれていたのです。
そんな社会を見て悩んでいたムハンマドは、時々、山の中にこもって、ひとり静かに考える時間(瞑想)を持っていました。
そして610年、ヒラー山という場所で瞑想していたときのこと。突然、天使ジブリール(ガブリエル)が現れ、神(アッラー)の言葉をムハンマドに授けたのです。
こうしてムハンマドは、「アッラー(唯一の神)」からの教えを人々に伝える使命を担う「預言者」としての道を歩み始めました。
イスラームの伝承によれば、ムハンマドは読み書きができなかったとされています。そのため、神から授かった言葉を彼は暗唱し、人々もそれを口伝えで覚えていきました。やがて信者たちは、その言葉を記録としてまとめていきます。これが、イスラーム教の聖典『クルアーン(コーラン)』です。
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ガブリエルからの教えの内容は?
- 「神はただ一つ(アッラー)」
- 「すべての人は神の前では平等」
- 「弱者を助け、施しを大切に」
- 「偶像崇拝や多神教をやめよ」
メディナでの活躍/ヒジュラ(聖遷):622年
ムハンマドの教えの中心は、「ただひとつの神アッラーを信じること」と「すべての人は神の前で平等だ」というものでした。
この教えは、特に貧しい人たちの心をつかみました。「神はあなたを見捨てていない。すべての人が大切なんだ」そんなアッラーの教えをムハンマドが人々に伝え始めると、貧しい人々や弱い立場の人たちが次々と彼の話に耳を傾けました。
しかしその一方で、メッカの富裕層やクライシュ族の有力者たちは激しく反発しました。「すべての人は平等だ」と言われたら、自分たちの特権がなくなってしまうからです。また、伝統的な多神教を否定するムハンマドの教えは、宗教ビジネスに頼っていた彼らにとって都合の悪いものでした。
やがてムハンマドは激しい迫害を受けるようになり、迫害から逃れるために、信者たちとともに、622年に北のメディナへ移住します。
この出来事・移住を「ヒジュラ(聖遷・聖なる移動)」といい、イスラーム暦ではこの年が「元年」とされています。
メディナでは彼の教えが受け入れられ、宗教共同体(ウンマ)が形成されていきました。
メディナでは彼の教えが受け入れられムハンバドは、町の人々と協力して新しい共同体をつくっていきます。そこでは、部族や出身にかかわらず、すべての人が助け合って生きていくという考え方が大切にされました。
重要ポイント
- ムハンマドは「最後の預言者(預言者の封印)」とされる
- 彼に与えられた神の言葉がクルアーン(コーラン)
- イスラームは、宗教・政治・軍事が一体化した教え
メッカ奪還とイスラーム国家の成立
メディナで信者の数が増え、共同体が安定してくると、ムハンマドはかつて自分を迫害したメッカの有力者たちと向き合う決意をします。
いくつかの戦いを経て、ついにムハンマドはメッカに軍を率いて戻り、戦うことなくこの町を取り戻すことに成功しました。そして、カアバ神殿を多神教の偶像から清め、アッラーへの信仰の聖地と定めました。
その後、アラビア半島のほぼ全域を統一。ムハンマドは632年、死去。こうしてメッカは、イスラーム教の最も大切な聖地となったのです。
イスラーム共同体の形成
ムハンマドの教えは、メディナからメッカ、そしてアラビア半島全体へと広がっていきました。
信者たちは、民族や部族を超えて「ウマ」と呼ばれる一つの大きな仲間(共同体)としてまとまっていきます。そこでは、アッラーを信じること、貧しい人を助けること、正直であることなどが大切にされました。
このようにして、宗教・政治・社会のすべてをあわせ持つ新しい形の共同体=イスラーム国家(宗教と政治が結びついた共同体)をが誕生したのです。